資治通鑑漢紀 孝獻皇帝 興平 二年 195年

春正月・恩赦と曹操の反攻

  • 春正月癸丑、天下に恩赦が行われた。
  • 曹操は定陶で呂布を破った。
  • 朝廷は袁紹を右将軍に任じた。これは袁紹のいる鄴でそのまま拝命させたものである。

李傕・郭汜・樊稠の内紛

  • 董卓の死後なお三輔には数十万戸が残っていたが、李傕らの放兵と略奪、さらに飢饉のため、この二年ほどで人が人を食うありさまとなり、住民はほとんど尽きた。
  • 李傕・郭汜・樊稠は互いに功を誇って権力を争い、賈詡が大局を説いて辛うじて表面を保っていた。
  • 樊稠が馬騰・韓遂を撃った際、李利の戦いぶりが鈍かったので、樊稠は叱責した。やがて韓遂と樊稠は陳倉で馬を寄せ合って長く語り、同州人として別れた。
  • このことを李利が李傕に告げ、李傕は、樊稠が勇敢で衆望もあるうえ韓遂と親しく通じたと疑って警戒した。
  • 樊稠が東へ兵を出したいとして増兵を求めると、二月、李傕は会議の席で樊稠を殺した。
  • このため諸将はますます互いに猜疑するようになった。
  • 李傕はしばしば郭汜を酒席に招いたが、郭汜の妻は、郭汜が李傕の婢妾を恋して李傕に心を寄せるのを恐れた。李傕から贈られた豆豉に薬が入っていると郭汜に見せつけ、李傕への疑念を煽った。
  • 郭汜は次の酒宴で毒を疑い、糞汁を飲んで解毒したうえで、ついに李傕と互いに兵を治めて攻め合うに至った。

三月・天子の拉致と長安宮城の破壊

  • 皇帝は侍中・尚書を使って李傕・郭汜の和解を命じたが、両者は従わなかった。
  • 郭汜は皇帝を自軍へ迎えようと図ったが、夜のうちに逃亡者が李傕へ告げた。
  • 三月丙寅、李傕は甥の李暹に数千兵を授けて宮城を包囲させ、車三乗で皇帝を迎えた。
  • 太尉楊彪は、歴代の帝王で人の家にいる者はないと抗議したが、李暹はすでに決したとして聞かなかった。
  • 群臣は徒歩で乗輿に従って出発し、兵はそのまま殿中へ乱入して宮女や御物を掠めた。
  • 皇帝が李傕の営に着くと、李傕は御府の金帛まで移して自営に置き、さらに宮殿・官府・民家に火を放ち、長安の都は焼き尽くされた。
  • 皇帝は再び公卿に和解を命じたが、郭汜は楊彪・張喜・王隆・劉淵・士孫瑞・韓融・宣璠・栄郃・朱儁・梁邵・姜宣らを自営に留め、人質とした。朱儁は憤激して病み、そのまま死んだ。

夏四月・伏皇后の立后と李傕・郭汜の交戦

  • 四月甲子、琅邪伏氏が皇后に立てられ、その父伏完は執金吾となった。
  • 郭汜は公卿を集めて李傕攻撃を議したが、楊彪は、一方が天子を脅かし一方が公卿を人質にする状況で、群臣が一方に味方して戦うことはできぬと述べた。
  • 郭汜は怒って楊彪を手討ちにしようとしたが、楊密の諫止で思いとどまった。
  • 李傕は羌胡数千を招き、御物の絹を先に与え、宮女や婦女を与えると約束して郭汜を攻めさせようとした。
  • 一方、郭汜は李傕側の張苞らと内通し、丙申の夜に李傕の門を襲った。矢は皇帝の車の帷にも及び、李傕の左耳を貫いた。
  • 張苞らは火を放ったが十分燃え広がらず、楊奉が外で郭汜を防いだため、郭汜は退いた。だが張苞らの兵はこのまま郭汜に合流した。
  • その日、李傕は再び乗輿を北塢へ移し、塢門を閉ざして内外を断絶した。
  • 侍臣たちは飢え、皇帝が米五斗と牛骨五具を求めて左右に与えようとすると、李傕は朝夕の食事があるではないかと臭った牛骨だけを出した。皇帝は怒ったが、楊琦が今は耐えるべきだと諫めたので抑えた。
  • 司徒趙温は李傕に書を送り、王城を屠り大臣を殺したうえ、つまらぬ意地から大乱を広げ、さらに車駕を黄白城へ移そうとするのは誤りだと強く責めた。李傕は激怒して殺そうとしたが、弟の李応が諫めて中止した。

閏月・皇甫酈の調停失敗

  • 李傕は巫覡や厭勝の術を信じ、しばしば董卓を祀り、皇帝に向かっても「明陛下」「明帝」と言い分けながら郭汜を悪しざまに語った。皇帝はその意に合わせて応じたため、李傕は自分が天子の歓心を得ていると思い込んだ。
  • 閏月己卯、皇帝は皇甫酈を使って李傕・郭汜を和解させようとした。
  • 皇甫酈が先に郭汜へ行くと、郭汜は詔に従う姿勢を見せた。
  • しかし李傕は、郭汜のような者と対等に論じるのは承服できぬとして拒絶した。皇甫酈が、李傕は天子を脅かし、郭汜は公卿を人質にしているのだから、どちらが重罪かは明らかだと率直に論じると、李傕は怒って追い出した。
  • 皇甫酈は宮門で不奏請の次第を報告したが、皇帝は李傕に聞かれるのを恐れて急いで退去させた。李傕は一時、虎賁の王昌に命じて皇甫酈を捕らえさせようとしたが、王昌は彼の忠直を知っており、わざと逃がした。
  • 辛巳、李傕は車騎将軍から大司馬に進み、三公の上位に置かれた。

曹操の兗州回復と呂布の敗走

  • 呂布の将薛蘭・李封が鉅野に屯すると、曹操はこれを攻めた。呂布は救援に来たが敗れて走り、曹操は薛蘭らを斬った。
  • 曹操はこの時、陶謙の死に乗じて徐州を奪おうと考えたが、荀彧が強く諫めた。
  • 荀彧は、兗州こそ曹操にとっての根本であり、ここを確保すれば呂布を破ったのち揚州と結んで袁術を圧迫できるが、呂布を捨てて徐州に深入りすれば兵も食も足りず、徐州の民も前年の屠略を恨んで容易に帰服しないと説いた。
  • 曹操はこれに従い、呂布討伐を優先した。
  • 呂布は東緡から陳宮とともに万余の兵で来戦したが、曹操は西の大堤と林を利用して伏兵を置き、軽兵で誘って大破した。
  • 呂布は夜のうちに逃げ、曹操はさらに定陶を攻め落とし、諸県を平定した。
  • 呂布は東へ劉備のもとへ走った。
  • 張邈は呂布に従い、弟の張超に家族を率いさせて雍丘に籠らせた。

呂布と劉備

  • 呂布は初めて劉備に会ったとき、同じ辺地の人間だとして大いに敬い、妻の座所にまで招いて酒食をふるまい、「弟」と呼んだ。
  • 劉備は表面上はこれに応じたが、内心ではその言動の軽薄さを快く思わなかった。

六月〜七月・張済の調停と長安脱出

  • 李傕・郭汜の争いは数か月に及び、死者は万を数えた。
  • 六月、李傕配下の楊奉が李傕暗殺を図って露見し、そのまま兵を率いて李傕から離反したため、李傕の勢力は弱まった。
  • 庚午、鎮東将軍張済が陝から来て、李傕・郭汜の和解を図り、車駕をひとまず弘農へ移すことを提案した。
  • 皇帝も旧都洛陽への帰還を望み、たびたび使者を出して説いたところ、ようやく李傕・郭汜は和議に応じ、互いの愛子を人質に出す話まで進んだ。ただし李傕の妻が子を惜しんだため、決定は遅れた。
  • 羌胡はしばしば宮門をうかがって、李傕が約束した宮女はどこにいるのかと騒いだ。皇帝が賈詡に方策を問うと、賈詡は彼らの大帥を招いて酒食でもてなし、封賞を約して帰らせた。これで李傕はさらに孤立し、和解論が優勢になった。
  • ついに双方は娘を人質に出して和した。
  • 七月甲子、車駕は宣平門を出た。橋を渡る際、郭汜兵が「これは天子ではない」と行く手を遮り、李傕兵も大戟を構えて緊張が高まったが、劉艾と楊琦が車の簾を上げて天子の存在を示し、事なきを得た。
  • 夜に覇陵へ着くと随行者は皆飢えていたが、張済が差等をつけて支給した。
  • 李傕は池陽へ屯し、丙寅、張済は票騎将軍・開府如三公、郭汜は車騎将軍、楊定は後将軍、楊奉は興義将軍となり、いずれも列侯に封じられた。さらに董承も安集将軍となった。

八月・車駕の新豊行幸と郭汜の失脚

  • 郭汜は高陵への行幸を主張したが、公卿と張済は弘農行きを適当と考えた。議論はまとまらなかったため、皇帝は弘農は宗廟に近いのだから疑うなと郭汜に伝えたが、郭汜は従わなかった。
  • 皇帝は終日食を断ったため、郭汜もついに折れて、まず近県へ行幸することで妥協した。
  • 八月甲辰、車駕は新豊に行き、丙子、郭汜はさらに皇帝を郿へ連れ戻そうとした。
  • 侍中种輯がこれを知って密かに楊定・董承・楊奉へ知らせたので、三者は新豊に集まった。郭汜は計画漏洩を知ると軍を捨てて南山へ逃げ込んだ。

曹操、張超を討つ

  • 曹操は雍丘を囲んだ。
  • 張邈は袁術のもとへ救援を求めに行ったが、到着前に配下に殺された。
  • 冬十月、曹操は正式に兗州牧となった。

十月〜十二月・華陰から河東への流離

  • 戊戌、郭汜の党の夏育・高碩らが車駕を脅して西へ向かわせようとした。
  • 侍中劉艾は火災を口実に一営へ避難するよう皇帝に進言し、楊定・董承が兵を率いて迎えた。夏育らは乗輿を止めようとしたが、楊定・董承が戦って破り、皇帝は脱出した。
  • 壬寅、車駕は華陰へ行幸した。
  • 段煨は服御や公卿以下の物資を整えて皇帝を自営へ迎えようとしたが、楊定と不和であり、楊定側の种輯・左霊が段煨の反意を唱えた。楊彪・趙温・劉艾・梁紹らは段煨の無罪を誓ったが、董承・楊定は弘農督郵に郭汜が段煨営内にいると言わせたため、皇帝は疑い、道の南に露営した。
  • 丁未、楊奉・董承・楊定は段煨を攻める詔を求めたが、皇帝は罪も定まらぬ者を攻める詔は出せぬとして拒んだ。三者は独断で十余日攻めたが落とせず、段煨はなお御膳や百官への供給を絶やさなかった。
  • その後、詔により和解が命じられ、楊定らは兵を退いた。
  • ところが李傕・郭汜は車駕を東へ出したのを後悔し、楊定らが段煨を攻めていると聞いて共に救援に来るふりをしつつ、実際には皇帝を奪い返そうとした。
  • 楊定はこれを聞いて藍田へ退こうとしたが郭汜に遮られ、単騎で荊州へ逃れた。
  • 張済は楊奉・董承と折り合いが悪く、再び李傕・郭汜と結んだ。
  • 十二月、皇帝は弘農へ向かったが、張済・李傕・郭汜が追撃し、弘農東澗で大戦となった。
  • 董承・楊奉軍は敗れ、百官・士卒の死者は数えきれず、御物・符節・文書・典籍までもほとんど失われた。射声校尉沮儁は重傷で落馬し、李傕を罵って殺された。
  • 壬申、皇帝は曹陽で露宿した。
  • 董承・楊奉は李傕らに偽って和議を装いながら、ひそかに河東へ使者を出し、白波帥の李楽・韓暹・胡才、および南匈奴右賢王去卑を招いた。彼らは数千騎で来援し、李傕らを大破して数千級を斬った。
  • これを機に東へ進もうとしたが、庚申に再戦となって今度は董承らが大敗し、死者は東澗よりさらに多かった。鄧淵・宣璠・田芬・張義らも死んだ。
  • 趙温・王絳・周忠・管郃ら大臣も李傕に捕まるところだったが、賈詡が害するなと諫めて助かった。
  • 李楽は、事ここに至っては天子も馬に乗るべきだと言ったが、皇帝は百官を捨てて行くことはできぬと拒んだ。
  • 軍列は四十里にもわたって乱れながら、ようやく陝に至って陣営を結んだ。

黄河渡河と安邑到着

  • この時、残存する虎賁・羽林は百人にも満たず、李傕・郭汜の兵が陣を取り囲んで叫んだため、官吏や兵士は顔色を失い、離散の気配も生じた。
  • 李楽は天子を船で砥柱を越え孟津に出そうとしたが、楊彪は河道が険しすぎるとして反対した。
  • そこで李楽は夜のうちに潜かに船を用意し、火を合図にした。
  • 皇帝は公卿とともに徒歩で陣を出た。皇后の兄伏徳は片手で皇后を支え、片手に絹十疋を抱えていたが、董承配下の孫徽が人混みのなかでこれを斬って奪い、侍者の血が皇后の衣に飛び散った。
  • 河岸は高くて降りられず、絹を綱の代わりにして人が皇帝を背負って下ろした。皆は匍匐して降りるか、自ら飛び降りて冠や頭巾を壊した。
  • 河辺に着くと兵士たちは争って舟に乗ろうとし、董承・李楽は戈でこれを打ち払った。舟中に突き出た指はすくえるほどだったという。
  • 渡河できたのは皇帝・皇后と楊彪以下わずか数十人で、宮女や吏民の多くは渡れずに賊兵に掠め取られ、衣服も髪も奪われて凍死した者が多数に及んだ。士孫瑞も李傕に殺された。
  • 李傕は河北の火を見て騎兵を出したが、ちょうど皇帝の渡河を発見されたため、董承は矢を防ぐため被を幔のように張って対処した。
  • 一行は大陽に着き、李楽の営に入った。河内太守張楊は数千人に米を背負わせて献上した。
  • 乙亥、皇帝は牛車に乗って安邑へ行幸した。河東太守王邑が綿帛を献じ、それは公卿以下へ配分された。
  • 王邑は列侯に封ぜられ、胡才は征東将軍、張楊は安国将軍となり、いずれも節を仮され開府した。諸営の群帥も競って官職を求めたが、印綬が足りず、錐で印文を刻むほどであった。

安邑での窮乏

  • 乗輿は棘の籬の中にあり、門戸にも扉がなく、天子と群臣が会食しているのを兵士たちが籬の上から見下ろし、押し合いながら笑うありさまだった。
  • 皇帝はさらに韓融を弘農へ送り、李傕・郭汜との連和を図った。李傕らは公卿百官を解放し、奪った宮女や器服の一部も返した。
  • しかしやがて食糧は尽き、宮女たちは菜や果実で命をつないだ。
  • 乙卯、張楊が野王から朝見し、車駕を洛陽へ帰そうとしたが、諸将が従わなかったため、再び野王へ帰った。
  • このころ長安は四十余日も空となり、強い者は散り、弱い者は食い合った。二、三年のうちに関中は人跡の絶えるほど荒廃した。

袁紹、天子奉迎を見送る

  • 沮授は袁紹に対し、朝廷はいま流離し宗廟も破れ、諸州の兵は名目は義兵でも実際は互いを図っているだけだとして、いまこそ車駕を西から迎え、鄴を都として天子を奉じ諸侯に号令すべきだと説いた。
  • これに対し郭図・淳于瓊は、漢室の衰えは深く、天子を近くに置けば何事も上聞せねばならず、従えば権が軽くなり、従わねば拒命となるから得策でないと主張した。
  • 沮授は、今こそ義にも時にもかなう行いであり、遅れれば必ず他者に先を越されると重ねて説いたが、袁紹は従わなかった。

孫策の江東進出

  • 丹陽の朱治は、袁術には徳がなく、江東へ帰って基盤を築くべきだと孫策に勧めていた。
  • 呉景が樊能・張英らを一年余り攻めても破れなかったため、孫策は袁術に対し、横江を破ったのち本土で募兵すれば三万は集められ、天下平定に役立てられると説いた。
  • 袁術は、孫策が九江・廬江の約束を外されたことを恨んでいると知りつつも、劉繇が曲阿に、王朗が会稽にいて江東平定は容易でないと見て、かえって許可した。
  • 孫策は折衝校尉となり、千余兵・数十騎を与えられて出発したが、道中で兵を集め、歴陽に着くころには五、六千となった。
  • 周瑜は父の従兄周尚が丹陽太守であった縁から兵と資糧を率いて迎え、孫策はこれを大いに喜んだ。
  • 孫策は横江・当利を攻め落とし、樊能・張英を破った。
  • 江を渡って転戦すると、行く先々で勝利し、民は「孫郎」の来着を聞いて震え上がった。
  • だが孫策は軍令を厳守して掠奪を禁じ、鶏犬や菜に至るまで犯さなかったため、民はかえって喜び、牛酒を持って労軍した。
  • 孫策は容貌に優れ、言葉は快活で人をよく受け入れ、人材を用いるのに巧みだったため、士民は見れば皆、進んで尽力し死力を尽くした。
  • 牛渚の劉繇の営を攻めて兵糧・軍具を得た。
  • 劉繇に属していた薛礼は秣陵に、笮融はその南に屯していたが、孫策はこれを破り、さらに梅陵・湖孰・江乗も攻め落とした。
  • 曲阿で劉繇と対峙したとき、太史慈が東萊から劉繇を見舞いに来ていた。劉繇は名士許劭に笑われるのを恐れて大将には用いず、偵察に出した。
  • 太史慈は単騎に近い状態で孫策と神亭で遭遇し、孫策側も十三騎しかいなかったが、両者は真っ向から一騎打ちを演じた。孫策は太史慈の馬を刺して戟を奪い、太史慈も孫策の兜を奪ったところで、双方の援兵が来て分かれた。
  • 劉繇は敗れて丹徒へ走り、孫策は曲阿に入り、諸県へ布告して降る者を咎めず、従軍を望む者には戸役を免除した。
  • 十日ほどで四方から人が集まり、兵は二万余、馬は千余となり、江東に威名が震えた。
  • 丙辰、袁術は孫策を行殄寇将軍とした。

孫策陣営の整備

  • 孫策の将呂範は、事業が大きくなった以上、軍の綱紀を整える役を自分に任せてほしいと願った。
  • 孫策は、すでに外で功を立てた士大夫にすぎぬ小職をさせるのは不当だと遠慮したが、呂範は、将軍に身を託したのは妻子のためではなく世を済うためであり、同舟して海を渡る以上、ひとつ綻べば皆が沈むと説いた。
  • すると孫策はこれを受け入れ、呂範に符伝を与えて都督を兼ねさせた。以後、軍中は粛然となった。
  • 孫策は張紘を正議校尉、張昭を長史とし、一人を留守、一人を従軍させて、広陵の秦松・陳端らも参画させた。
  • とくに張昭には師友の礼をもって接し、文武の政務をほぼ一任した。北方の士大夫の書簡が張昭を称えるのを聞いても、孫策は、桓公が管仲を用いて覇者となったように、自分も賢者を使い得ることこそ功だと笑った。

劉繇の転戦と笮融の暴虐

  • 袁術は従弟袁胤を丹陽太守とし、周尚・周瑜は寿春へ戻った。
  • 劉繇は丹徒から会稽へ逃れようとしたが、許劭は、会稽は富んでいるため孫策の標的となる、海隅に追い詰められるより豫章へ行き、曹操や劉表と通じるべきだと勧めた。劉繇はこれに従った。
  • 笮融はもと陶謙配下として三郡の糧運を監督していたが、途中で物資を横領し、仏寺を大造営して人々に仏経を読ませ、浴仏会には数十里にわたって席を敷き、巨万の費用を投じていた。
  • 曹操が陶謙を破って徐州が不安定になると、笮融は男女一万余を率いて広陵へ逃れ、太守趙昱は賓礼で迎えた。
  • ところが笮融は酒宴の最中に趙昱を殺し、大掠奪を行って江を渡り、薛礼に身を寄せたのち、さらに薛礼まで殺した。
  • 劉繇は豫章太守朱皓に、袁術が任じた諸葛玄を攻めさせ、諸葛玄は西城に退いた。
  • 劉繇が彭沢に進むと笮融にも朱皓を助けさせたが、許劭は、笮融は名義を顧みないので朱皓は用心すべきだと忠告した。果たして笮融は朱皓を欺いて殺し、豫章郡を奪った。
  • 劉繇は自ら笮融を討って破り、笮融は山中へ逃げ込んだ末、民に殺された。
  • 朝廷は前太傅掾華歆を豫章太守に任じた。

呉郡と山越

  • 丹陽都尉朱治は呉郡太守許貢を追ってその郡を奪い、許貢は南方の山賊厳白虎に頼った。厳白虎は万余の衆を擁していた。

雍丘陥落と臧洪の義

  • 雍丘に籠る張超は、臧洪だけは必ず救援に来ると言った。部下たちは、いま袁紹と曹操は親しいのだから、臧洪がそんな危険を冒すはずがないと疑ったが、張超は臧洪の義を信じた。
  • 臧洪は東郡太守として袁紹に属していたが、裸足で号泣し、兵を借りて張超を救おうと願った。袁紹が許さず、自分の兵だけを率いて行くことすら認めなかったため、雍丘はついに陥落し、張超は自殺し、曹操はその三族を滅ぼした。
  • 臧洪はこれにより袁紹を恨み、交わりを断った。
  • 袁紹は臧洪を一年余り包囲したが落とせず、同郷の陳琳に書を送らせて降伏を勧めた。
  • 臧洪は返書で、もとは主人の厚恩を受けて大郡を預かり、王室を尊ぶ志を抱いたが、張超救援を拒まれた以上、交友と忠義の両方を全うするには袁紹と絶つしかないと述べた。さらに、自分は長安の朝廷に名を連ねる身であり、死んでも名は滅びぬが、君は生きても聞こえないだろうと痛烈にやり返した。
  • 袁紹はこれを見て、降る見込みなしと知り、攻撃を強めた。
  • 城中では鼠を掘り、筋や角まで煮て食べ尽くし、ついには食物が尽きた。主簿がわずかな米で粥を進めると、臧洪は自分だけ甘んじて食べるわけにはいかぬとして薄粥にして全員へ分けた。さらに愛妾を殺して将士に食わせたため、皆涙して仰ぎ見られなかった。
  • 男女七八千人が折り重なって死んだが、離反する者はなかった。
  • 城が陥ちると、袁紹は大会して臧洪を引き出し、なお服するかと問うた。
  • 臧洪は、袁氏は四世五公の家柄として漢の恩を受けながら、王室が衰えたときに扶けず、忠良を殺して私威を立てている、張邈を兄と呼んだなら張超も弟として救うべきだったと面前で痛罵した。
  • 袁紹はもとは臧洪の才能を惜しみ、屈服させて用いたかったが、その言が峻烈で変わらぬのを見て、ついに殺した。
  • すると同郷の陳容も席を立って、天下の暴を除こうとする者が先に忠義を殺してどうするのかと袁紹を責め、臧洪と同日に死ぬことを選ぶと言って、やはり殺された。
  • 同席者たちは、一日に二人の烈士を失ったと嘆息した。

幽州の混乱と公孫瓚

  • 公孫瓚は劉虞を殺して幽州をほぼ掌握してから、ますます志気が盛んになったが、百姓を恵まず、恩より怨みを覚え、わずかな遺恨でも必ず報いた。
  • 衣冠の名士や、自分より上に立ちそうな者、有能な者をことごとく抑え、法で害し、貧困の地へ追いやった。
  • その理由を問われると、公孫瓚は、衣冠の者たちは自分こそ当然貴ぶべきだと思っていて恩に感謝しないからだと言い、むしろ商人や卑小な者を愛し、兄弟・姻族としていた。
  • そのため、部下の横暴を百姓は怨んだ。
  • 劉虞旧臣の鮮于輔らは仇討ちを図り、烏桓司馬に推した閻柔が胡漢数万を招集した。潞北で公孫瓚配下の鄒丹を破って四千余を斬り、烏桓の峭王や鮮卑七千余騎も合流した。
  • さらに劉虞の子劉和を迎え、袁紹配下の麴義とも合流して十万で公孫瓚を鮑丘に破り、二万余を斬った。
  • 代郡・広陽・上谷・右北平も相次いで公孫瓚の長吏を殺し、鮮于輔・劉和と合流したため、公孫瓚は連敗した。
  • 以前から「燕の南、趙の北、その中央の易だけが避世の地」という童謡があり、公孫瓚はこれを自分に当てはめて易へ移り、十重の囲塹をめぐらせ、その内側に高楼や土台を築き、自らはとくに高い中央の楼に住んだ。
  • 鉄門を設け、七歳以上の男を入れず、女だけをそばに置き、文書は汲み上げるようにして受け渡した。婦人に大声を習わせて命令を伝えさせ、賓客や部将とも疎遠になった。
  • こうして謀臣・猛将は次第に離れ、彼自身も、昔は塞外の胡や黄巾を破って天下も容易に定まると思ったが、今や兵革の帰趨は自分の力で決められぬとして、休兵して耕作し、数十重の楼櫓と三百万斛の穀で天下の変を待つと言うようになった。

南匈奴

  • 南単于於扶羅が死に、弟の呼厨泉が立って平陽に居した。