春正月・皇帝の加冠と生母の追尊
- 春正月辛酉、天下に恩赦が行われた。
- 甲子、皇帝は元服した。
- 二月、長秋宮を立てて後宮を整える案が出されたが、皇帝は、生母王夫人の葬地も定まらぬうちに後宮のことを論じるのは忍びないとして退けた。
- そこで三公は、生母王夫人を改葬し、尊号を追って霊懐皇后とするよう奏上し、これが認められた。
陶謙の救援と劉備の徐州進出
- 徐州牧陶謙が田楷に救援を求め、田楷は平原相劉備とともにこれを助けた。劉備はもと数千の兵を持っていたが、陶謙からさらに丹陽兵四千を与えられ、田楷のもとを離れて陶謙の配下に入った。
- 陶謙は劉備を豫州刺史に推挙し、小沛に駐屯させた。以後、人々は劉備を「劉豫州」と呼ぶようになった。
- 曹操は兵糧が尽きたため、徐州方面から軍を引いた。
馬騰・韓遂と李傕政権の対立
- 馬騰は李傕に私的な願い事をしたが聞き入れられず、怒って兵を挙げようとした。皇帝は使者を出して李傕・馬騰の和解を図ったが従わなかった。
- 韓遂はいったん両者の和解に動いたが、やがて馬騰と再び結んだ。
- 諫議大夫种邵、侍中馬宇、左中郎将劉範らは、馬騰を長安襲撃の外援とし、自分たちは内応して李傕らを討とうと謀った。
- 壬申、馬騰と韓遂は兵を長平観に進めたが、計画が漏れ、种邵らは槐里へ逃走した。李傕は樊稠・郭汜・李利らに討たせ、馬騰・韓遂は敗れて凉州へ退いた。槐里も攻められ、种邵らはみな殺された。
- 庚申、朝廷は馬騰らを赦した。これは李傕らにも制圧しきれず、詔によって形式的に収めたものである。
- 夏四月、馬騰を安狄将軍、韓遂を安降将軍とした。
曹操の徐州侵攻と兗州の反乱
- 曹操は荀彧と程昱に鄄城を守らせ、自ら再び陶謙を攻めた。琅邪・東海まで略奪と破壊を広げ、郯東で劉備も破った。陶謙は恐れて丹陽へ逃れようとした。
- だがその最中、陳留太守張邈が曹操に叛き、呂布を迎えたため、曹操は軍を返した。
- 張邈は若いころから侠客を好み、袁紹・曹操と親しかったが、袁紹が盟主となって驕った際にこれを批判し、袁紹の恨みを買っていた。曹操はかつて袁紹に張邈殺害を求められても拒み、家族にも自分が戦死したら張邈を頼れと命じていた。
- しかし兗州では、曹操が辺讓を殺したことから士大夫たちに恐怖が広がっていた。陳宮は自分も危ういと感じ、許汜・王楷・張超らと張邈をそそのかして反乱を起こさせた。
- 張邈は陳宮の勧めに従い、東郡に屯していた陳宮の兵を使って密かに呂布を迎え、兗州牧とした。
- 張邈側は、呂布は曹操を助けて陶謙を討つために来たのだと荀彧に偽って伝えたが、荀彧は反乱を見抜いて備えを固め、濮陽の夏侯惇を急招した。
- 夏侯惇は到着したその夜のうちに内通者数十人を誅殺し、城中を安定させた。
- 豫州刺史郭貢が数万の兵を率いて城下に来て、呂布側と通じているとも疑われたが、荀彧は危険を承知で会見に赴き、相手の決断が固まる前に説得した。その結果、郭貢は鄄城攻略を断念して撤兵した。
- この時、兗州の郡県の大半は呂布に呼応し、鄄城・范・東阿だけが動かなかった。
程昱による三城防衛
- 呂布軍の降兵が、陳宮は東阿を、許汜・王楷らは范を取ろうとしていると告げたため、人心は大いに動揺した。
- 荀彧は程昱に、三城の士民を結束させる役目を託した。
- 程昱はまず范県に赴き、県令靳允を説得した。呂布は粗暴で人望も長続きせず、陳宮らの結びつきも薄いこと、曹操こそ将来の主であることを語り、母や妻子を呂布側に押さえられていても背いてはならぬと諭した。靳允は涙を流して同意し、すでに入っていた汜嶷を伏兵で刺殺して城を守った。
- 程昱はさらに倉亭津を断って陳宮軍の渡河を防いだ。
- 東阿では、県令棗祇がすでに吏民を励まして固守しており、こうして三城は持ちこたえた。
- 曹操が帰還すると、程昱の働きを高く評価し、東平相に任じて范に駐屯させた。
呂布と曹操の濮陽攻防
- 呂布は鄄城を攻め落とせず、西の濮陽に屯した。
- 曹操は、呂布が東平を押さえて交通路を断つでもなく、濮陽にとどまるのを見て、その器量を低く見積もり、進んでこれを攻めた。
- 八月、呂布の別働隊が濮陽西にいたので、曹操は夜襲して破った。しかし帰還前に呂布本隊が到着し、曹操自ら終日激戦した。
- このとき曹操は突撃兵を募り、典韋がこれに応じた。呂布軍の矢が雨のように降る中、典韋は敵が十分近づくまで動かず、最後に戟をふるって敵をなぎ倒し、曹操を救った。曹操は彼を都尉に任じ、親兵を率いさせた。
- その後、濮陽の田氏が内応したため曹操は入城できたが、敗走した際に呂布の騎兵に遭遇しながら正体を見破られず、辛うじて逃れた。
- 曹操は敗戦後も兵を励まして攻城具を急造させ、再び攻め立て、呂布と百日余り対峙した。
- しかし蝗害が起こり、民衆は飢え、呂布も兵糧が尽きたため、双方とも軍を引いた。
- 九月、曹操は鄄城へ戻り、呂布は乗氏に進んだが、県人の李進に破られて山陽へ退いた。
- 冬十月、曹操が東阿に着くと、袁紹は家族を鄴に移して自分に依存するよう勧めた。兗州を失い、兵糧も尽きていた曹操は一時これに傾いたが、程昱が袁紹の下風に立つべきでないと強く諫めたため、思いとどまった。
長安政権の人事と飢饉
- 五月、郭汜を後将軍、樊稠を右将軍とし、ともに開府して三公同様とした。太傅馬日磾もすでに開府していたため、これで三公と合わせ六府となった。
- 李傕・郭汜・樊稠は、それぞれ自派の推挙した人物を用いようとして争い、尚書の実務担当者は順番に採用することでしのいだが、三公の推挙は結局用いられなかった。
- 河西四郡は、凉州刺史の治所と遠く隔たり、河の賊によって交通も断たれていたため、独立した州の設置を求めた。
- 六月丙子、邯鄲商を雍州刺史としてこれを統治させた。雍州の治所は武威に置かれた。
- 丁丑・戊寅と都で地震が続き、乙酉晦には日食も起きた。
- 七月、太尉朱儁が罷免され、楊彪が太尉・録尚書事となった。楊定も安西将軍・開府如三公となった。
- 四月から雨が降らず、七月に至っても旱魃が続き、穀価は一斛五十万銭に達し、長安では人肉を食う者まで出た。
- 皇帝は侯汶に命じて太倉の米豆で粥を作らせ貧民に施したが、餓死者は減らなかった。そこで自ら御前で同量の米豆から粥を作らせたところ、実際には二盆もできたため、配給の不正を悟って侯汶を杖打ちにし、以後は多くの人が救われた。
馮翊羌討伐と長安周辺
- 八月、馮翊で羌が属県を侵したため、郭汜・樊稠らがこれを破った。
劉焉の死と益州の継承
- 馬騰攻撃の件に連座して、劉焉の子の劉範・劉誕はともに死んでいた。
- 議郎龐羲は旧交から劉焉の孫たちを蜀へ迎え入れた。
- そのころ火災で城が焼け、劉焉は治所を綿竹から成都へ移したが、背の腫物が悪化して死んだ。
- 益州の有力官吏趙韙らは、劉焉の子の劉璋が温厚であることから、彼を益州刺史として推した。
- 朝廷は別に扈瑁を益州刺史に任じたが、劉璋配下の沈弥・婁発・甘寧らが反乱しても扈瑁は入れず、結局劉璋が益州牧となった。
- 劉璋は趙韙を征東中郎将とし、兵を率いて劉表に備えさせ、朐䏰に駐屯させた。
陶謙の死と劉備の徐州領有
- 徐州牧陶謙が危篤となり、別駕麋竺に対して、この州を安んじうるのは劉備だけだと言い残して死んだ。
- 麋竺は州人を率いて劉備を迎えたが、劉備は袁術に州を譲るべきだと辞退した。
- これに対し、典農校尉陳登は、袁術は驕慢で乱世の主君たりえず、劉備こそ上は君主を助け民を救い、下は領土を保つに足ると述べた。
- 北海相孔融も、袁術など顧みるに足らぬと劉備を励まし、ついに劉備は徐州を領した。
馬日磾の最期
- 太傅馬日磾は趙岐とともに使者として寿春に赴いていた。
- 趙岐は節を守って屈しなかったが、馬日磾は袁術にややへつらうところがあり、袁術は彼を侮って、節を借りると言って奪い返さなかった。
- さらに袁術は彼を軍師にしようとして帰国を許さず、馬日磾は節を失ったことを恥じて病み、吐血して死んだ。
孫策の台頭の前史
- 孫堅には呉氏との間に孫策・孫権・孫翊・孫匡らがあった。孫堅が外征していたころ、家族は寿春に留まっていた。
- 孫策は少年期から名士と交わり、舒の周瑜もその名を聞いて訪れ、親交を結んだ。周瑜は自邸を譲り、母にも礼を尽くした。
- 孫堅の死後、孫策は十七歳で曲阿に葬り、その後江都に移って豪傑を招き、父の仇を討つ志を抱いた。
- 丹陽太守周昕が袁術と対立すると、袁術は孫策の舅の呉景を丹陽太守とし、周昕を攻めさせた。孫賁も丹陽都尉となった。
- 孫策は寿春に赴いて袁術に会い、亡父以来の縁を頼って兵の返還を願ったが、袁術はすぐには応じず、丹陽で募兵せよと命じた。
- 孫策は呂範・孫河らとともに曲阿で募兵し数百人を得たが、涇県の大帥祖郎の襲撃を受けて危うくなった。再び袁術のもとへ赴くと、ようやく孫堅の旧兵千余人が返され、懐義校尉に任じられた。
- 孫策は袁術の陣営に逃げ込んだ自軍の罪人を、その場で斬ってから袁術に謝罪した。袁術はかえってその厳しさを評価し、軍中はますます孫策を恐れた。
- しかし袁術は一度は九江太守・ついで廬江太守を約しながら守らず、孫策に陸康攻略を命じたのちも、奪った廬江を自分の故吏劉勲に与えたため、孫策は大いに失望した。
劉繇の揚州赴任と江東の対立
- 朝廷は劉岱の弟の劉繇を揚州刺史に任じたが、揚州旧治の寿春は袁術がすでに押さえていた。
- 劉繇は江南へ渡ろうとし、呉景・孫賁がこれを曲阿に迎え入れた。
- だが孫策が廬江を攻めていると聞くと、劉繇は呉景・孫賁が袁術側であることを警戒し、ついに両者を追い払った。呉景らは歴陽へ退いた。
- 劉繇は樊能・于糜を横江に、張英を当利口に置いて防がせた。
- これに対し袁術は、故吏の恵衢を揚州刺史とし、呉景・孫賁に張英らを攻めさせた。