春正月:関東諸将の新帝擁立論と劉虞の拒絶
- 朝廷は恩赦を出した。
- 関東の諸将は、幼い天子が董卓に抑えられ、しかも関所の隔たりのため安否も確かでないとして、幽州牧の劉虞を新たに立てようと議した。
- これに対し曹操は、諸軍が兵を挙げて天下の支持を得たのは「義」によるのであり、今の天子には廃立に値する重大な失徳がない以上、軽々しく帝位を改めれば天下は不安に陥ると反対した。
- 袁紹・韓馥は袁術にも書を送り、今の皇帝は霊帝の実子ではないとして、劉虞を奉じようと説いた。袁術は、董卓を討つことこそ本義であり、皇帝の血統を疑って国を乱すべきでないとして退けた。
- それでも袁紹らは使者を劉虞のもとへ送り、尊号を奉ろうとしたが、劉虞は厳しく叱責した。天下が乱れ、主上が流離しているのに、州郡を預かる者が力を合わせて王室を助けず、かえって簒逆の相談をするのかと責め、固く拒んだ。
- さらに尚書事の代行や、詔なしの任官権限を引き受けるよう求められても応じず、ついには匈奴へ逃れて袁紹らとの関係を断とうとまでしたため、この議は中止になった。
二月:孫堅、董卓軍を連破して洛陽へ進む
- 董卓は太師となり、地位は諸侯王の上とされた。
- 孫堅は梁県の東に移ったが、董卓配下の徐栄に敗れたのち、兵を集め直して陽人に陣した。
- 董卓は胡軫・呂布らに五千の兵を与えて孫堅を討たせたが、胡軫と呂布は不和であり、孫堅はこれを破って都督の華雄を討ち取った。
- 袁術の側では、孫堅が洛陽を得れば制しにくくなると讒言する者があり、袁術は兵糧の輸送を止めた。孫堅は夜通し馬を飛ばして袁術に会い、自分が命を顧みず戦うのは国家のためであり、また袁氏の私怨を晴らすためでもあるのに、なぜ中傷を信じて疑うのかと強く訴えた。袁術は恐縮して直ちに補給を再開した。
- 董卓は李傕を遣わして和親をもちかけ、孫堅の一族や縁者を刺史・太守に取り立てようとしたが、孫堅は董卓は天に逆らう大逆であり、三族を誅して天下に示さぬ限り死んでも目を閉じられないと断った。
- 孫堅はさらに大谷まで進み、諸陵の間で董卓と戦ってこれを破った。董卓は澠池へ退き、さらに陜に兵を集めた。
- 孫堅は洛陽に入り、呂布をも撃ち破った。荒廃した宗廟を清めて太牢で祭り、城南の井戸から伝国璽を得た。
- また新安・澠池方面に兵を出して董卓の退路を抑えた。
董卓の孫堅評と西方防衛線
- 董卓は長史の劉艾に、関東の軍はたびたび敗れており恐れるに足らないが、孫堅だけはやや人を用いる才があるので諸将に警戒させるべきだと語った。
- その際、かつて西方遠征で自分や孫堅の策が採用されず敗れた経験を引き合いに出し、孫堅には一定の見識があると評した。
- 董卓は防衛のため、董越を澠池、段煨を華陰、牛輔を安邑に置き、諸将を各県に分布させて山東方面に備えた。牛輔は董卓の娘婿であった。
- 董卓自身は長安へ引き揚げ、孫堅も諸陵を修築・封塞したうえで魯陽へ戻った。
夏四月:董卓、長安で専横を強める
- 董卓が長安に着くと、公卿たちは車の下で迎拝した。
- 董卓は皇甫嵩に対し「恐ろしくはないか」と嘲るように問うたが、皇甫嵩は、もし徳をもって朝廷を助けるなら慶事だが、残虐な刑罰をほしいままにするなら天下が恐れるだろうと答えた。
- 董卓の一党は、彼を太公望になぞらえて「尚父」と称するよう勧めた。蔡邕はその功勢の大きさは認めつつも、まず関東を平定し、天子が旧都に帰還したのちに議すべきだとして、董卓はひとまず思いとどまった。
- 董卓は司隷校尉の劉囂に命じ、民間で不孝・不忠・不廉・不順とされた者を摘発して処刑し、財産を没収させた。そのため互いに告発しあう風潮が広がり、無実の死者が多数にのぼった。人々は口を閉ざし、道では目で合図するばかりであった。
夏秋:官人の更迭と袁紹の冀州奪取
- 地震が起こった。
- 司空の种拂が免ぜられ、淳于嘉が司空となり、太尉の趙謙も罷免されて馬日磾がこれに代わった。
- 韓馥は、袁紹に人望が集まるのを妬み、ひそかにその軍糧を減らして兵を散らそうとした。ところが部将の麴義が反叛し、韓馥はこれに敗れたため、袁紹は麴義と結んだ。
- 逢紀は袁紹に、一州を持たねば自立できないとして、公孫瓚に冀州進出を促し、韓馥を脅かしたうえで譲位させる策を勧めた。袁紹はこれを採用した。
- 公孫瓚が兵を進め、袁紹方の高幹・辛評・荀諶・郭図らが韓馥に、袁氏の声望と実力は自分に勝るから、冀州を譲って身の安泰を図るべきだと説いた。韓馥は怯えてこれを受け入れた。
- 耿武・閔純・李歴らは、冀州は兵甲と穀物に富み、袁紹は寄食の客軍にすぎないから、補給を断てば自壊すると諫めたが、韓馥は聞き入れなかった。
- 孟津にいた趙浮・程渙も兵を率いて戻り、袁紹は容易に破れると説いたが、それでも韓馥は従わず、官印を送って州を譲った。
- 袁紹が冀州牧を称すると、耿武・閔純だけは刀を執ってこれを拒もうとしたが、止められず、袁紹は二人を殺した。
- 袁紹は韓馥を奮威将軍としたが実権は与えず、自ら冀州を掌握した。沮授を奮武将軍として諸将を監督させ、また審配・田豊・許攸・逢紀・荀諶らを登用して陣営を固めた。
- 朱漢が袁紹の意を先回りして韓馥邸を包囲し、その子を痛めつけたが、袁紹は勝手な振る舞いとして朱漢を処刑した。
- 韓馥はなお不安に駆られ、張邈を頼ったが、袁紹の使者が張邈と密談するのを見て自分が害されると思い込み、厠に立って書刀で自殺した。
曹操、袁紹を警戒し東郡へ
- 鮑信は曹操に、袁紹は盟主の地位を利用して私利を図り、やがて董卓に代わる災いになると警告した。ただし今これを抑える力はないので、大河以南を経営し変事を待つべきだと勧め、曹操も同意した。
- 黒山賊の于毒・白繞・眭固ら十余万が東郡を侵したため、曹操は兵を率いて入り、濮陽で白繞を破った。
- 袁紹はその功によって、曹操を東郡太守に推薦し、東武陽に治めさせた。
南匈奴・張楊と董卓の張温誅殺
- 南単于於扶羅は張楊を脅して袁紹に背かせ、黎陽に駐屯した。
- 董卓は張楊を建義将軍・河内太守に任じた。
- 太史が、やがて大臣が誅殺される相があると占うと、董卓は衛尉の張温が袁術と通じたと誣告させ、市中で笞殺した。これにより占いを成就させた形にした。
冬十月:公孫瓚の黄巾撃破と劉虞・公孫瓚の亀裂
- 青州黄巾三十万が勃海に侵入し、黒山賊と合流しようとした。公孫瓚は東光の南でこれを迎え撃ち、大勝して大量の首級を挙げた。
- 賊が黄河を渡る途中を追撃し、さらに大破して多数を殺し、生口七万余を得た。威名は大いに震った。
- 劉虞の子の劉和は侍中で、天子は東帰を望み、彼に董卓のもとから偽って脱出させ、劉虞へ迎兵を求めさせた。
- 劉和が南陽に至ると、袁術は劉虞を後援勢力として利用しようとし、劉和を留めて兵だけ送る構えを見せた。劉虞は数千騎を送ろうとしたが、公孫瓚は袁術の異心を見抜き、これを止めた。
- 劉虞が聞き入れなかったため、公孫瓚は逆に従弟の公孫越を袁術のもとへ送り、ひそかに劉和を捕えて兵を奪うよう教えた。このため、もともと不和であった劉虞と公孫瓚の間の亀裂はいっそう深まった。
- 劉和は袁術のもとを逃れ北へ戻ったが、今度は袁紹に留め置かれた。
袁紹・袁術の対立と孫堅の戦死
- 関東の州郡は互いに兼併して勢力拡大を図り、袁紹と袁術もまた対立した。
- 袁紹は会稽の周昻を豫州刺史に任じて、孫堅の拠る陽城を襲わせた。孫堅は、董卓を倒すべき時に味方どうしでこうも争うのかと嘆きつつ、兵を返して周昻を追い払った。
- 袁術は公孫越を派遣して孫堅を助けさせたが、公孫越は流れ矢に当たって死んだ。これをきっかけに公孫瓚は激怒し、磐河に進出して袁紹を攻めた。
- 公孫瓚は袁紹の罪を列挙して上表し、冀州の諸城にも離反が相次いだ。袁紹は勃海太守の印綬を公孫範に預けて勃海を守らせたが、公孫範は背いて公孫瓚に味方した。
- 孫堅はさらに劉表を攻め、黄祖を破って襄陽を包囲した。黄祖が兵を集めて戻ると、孫堅は夜追いをかけたが、峴山付近で黄祖の兵の伏射に遭って戦死した。
- 桓階が劉表に孫堅の喪を乞うと、劉表は義としてこれを許した。
- 孫堅の兄の子・孫賁が配下を率いて袁術のもとへ赴き、袁術は彼を豫州刺史に任じた。だが袁術は以後も劉表に勝てなかった。
朱儁・陶謙・劉焉・公孫度
- 董卓が入関した際、朱儁は洛陽の守備を任されていたが、関東諸将と内通していたため董卓の襲撃を恐れて荊州へ逃れた。のち再び洛陽へ戻り、河南尹の楊懿を追い払ったが、地が荒れて補給が困難なため中牟へ移り、州郡に董卓討伐の援軍を求めた。
- 徐州刺史の陶謙は朱儁を行車騎将軍に推し、精兵三千を送って助けた。陶謙はもとより黄巾を討って徐州を安定させていた。
- 益州の劉焉は密かに自立の志を抱き、張魯と張脩を用いて漢中太守蘇固を殺し、斜谷の道を断って朝廷との往来を遮断した。
- 劉焉はそのうえ、州内の豪族王咸・李権らを誅して威を示し、任岐・賈龍の反発を招いた。任岐は討たれたが、劉焉の野心はますます強まり、乗輿の器具まで多数造らせた。
- 劉表は、劉焉はまるで西河で聖人の説を疑わせた子夏のように、蜀で天子に似たふるまいをしていると上奏した。
- 公孫度は遼東方面で威勢を振るい、中原の士人が多数そのもとへ逃れた。
- 管寧・邴原・王烈らがこれに依った。管寧は金を見ても瓦石のように扱い、邴原は学業の妨げになるとして酒を断っていたことで名高かった。王烈は教化にすぐれ、罪を知って恥じる者にはむしろ善に向かう機会を与えた。公孫度は彼らを遇したが、特に王烈の評判を気にかける場面もあった。