資治通鑑漢紀四十七 孝桓皇帝 延熹 九年 166年

春正月 日食と荀爽の対策

  • 正月辛卯朔、日食があった。帝は公卿・郡国に至孝の士を挙げさせた。
  • 太常趙典が推挙した荀爽は対策で、礼は天地の中正を立てるものであり、その中でも婚礼が根本だと述べた。陰陽の調和を欠けば国は乱れ、寿命も子孫も保てないとし、帝の過剰な後宮生活を正面から批判した。
  • 後宮の采女が五、六千人、さらに従官や使役の女たちがいるため、無辜の民の負担が増し、外では民が窮し、内では陰陽が塞がれて災異を招くのだとして、まだ幸されていない女たちはすべて放出し、しかるべき婚姻を整えるべきだと説いた。帝はこれを採って荀爽を郎中に任じた。

司隷・豫州の飢饉と張奐の復帰

  • 司隷・豫州では飢饉が深刻で、死亡者は住民の四、五割に達し、戸籍ごと絶える家もあった。
  • 帝は張奐を大司農に徴し、皇甫規を代えて度遼将軍とした。
  • 皇甫規は高位に連なり続けたため退きたいと考え、病を理由に辞そうとしたが許されなかった。そこで友人の喪を口実に国境を越えて出迎え、并州刺史胡芳に自分を弾劾するよう仕向けた。だが胡芳は、これは皇甫規が官途を避けるために自分を刺激しているだけだとして取り合わず、むしろ朝廷のために人材を惜しんだ。

夏四月・五月 河清と老子祀り

  • 四月、済陰・東郡・済北・平原で黄河の水が澄んだ。
  • 司徒許栩が免じられ、五月に太常胡広が司徒となった。
  • 庚午、帝はみずから濯龍宮で老子を祀り、毛織の文様布で壇を飾り、純金で器の口を飾り、華蓋の座を設け、郊天の楽まで用いた。史書はこれを礼に外れたものとして扱う。

六月・七月 北辺の騒乱

  • 張奐が去ったと聞いた鮮卑は、南匈奴・烏桓を誘ってともに叛き、六月に数道から塞内へ入り、辺境九郡を掠めた。
  • 七月には鮮卑が再び侵入し、東羌を誘って盟約を結ばせた。これを受けて、上郡の沈氐、安定の先零など諸種も武威・張掖を寇し、辺地は大きな被害を受けた。
  • そこで朝廷は張奐を再び護匈奴中郎将に任じ、九卿の秩を与え、幽・并・涼三州と度遼・烏桓二営を統轄させ、さらに刺史・二千石の能否までも監察させた。

甘陵党の始まり

  • 桓帝が蠡吾侯であったころ学んだ周福は、即位後に尚書へ抜擢された。同郡の房植も朝廷で名が高く、「天下の規矩は房伯武、師を頼って印綬を得たのは周仲進」と歌われた。
  • これをきっかけに両家の賓客が互いを嘲り合い、朋党を樹てて対立した。甘陵で南北二部の党争が起こったのはここに始まる。

范滂・岑晊と清議の高まり

  • 汝南太守宗資は范滂を功曹に、南陽太守成瑨は岑晊を功曹に任じ、善を賞し悪を糾すことを一任した。
  • 范滂はことに剛直で、悪を仇のように憎んだ。自分の甥李頌を中常侍唐衡が推してきても召さず、宗資が怒って書佐朱零を杖打とうとすると、朱零は「今日笞を受けて死んでも、范滂には逆らえません」と言い切り、宗資もやめた。
  • こうして二郡には、宗資や成瑨は功曹の言いなりだとする歌が広まった。
  • 太学の学生三万余は、郭泰・賈彪をその中心に戴き、李膺・陳蕃・王暢らと相互に称揚しあった。「天下の模楷は李元礼、強禦を恐れぬは陳仲挙、天下の俊秀は王叔茂」とまで言われ、中外で人物の優劣を論じる風が盛んになった。

張汎・趙津事件と成瑨・劉瓆らの失脚

  • 宛の富商張汎は後宮と縁があり、細工物を宦官に贈って権勢を得ていた。岑晊と賊曹史張牧は成瑨に勧めて張汎らを捕らえさせ、赦しが出た後であっても成瑨はついに張汎とその宗族・賓客二百余人を誅した。
  • 小黄門趙津は晋陽で一県の患となるほど暴虐であった。太原太守劉瓆は王允に捕らえさせ、これも赦後に誅した。
  • 侯覧は張汎の妻に上書させ、宦官たちはこれに便乗して成瑨・劉瓆を譖訴した。帝は激怒し、両人を下獄して棄市相当とした。
  • 山陽太守翟超の東部督郵張儉は、防東に本拠を持つ侯覧の一族の横暴を糾弾した。侯覧が母の喪で帰郷した際、その冢宅を破却し財産を没収して奏上したが、侯覧が途中で章を押し止めたため、正式には上聞されなかった。
  • 徐璜の兄の子・徐宣は下邳令としてとりわけ暴虐で、李暠の娘を奪って戯れに射殺した。東海相黄浮はこれを聞き、徐宣の家族をことごとく取り調べ、掾史の反対を押し切って徐宣を棄市とし、さらし首にした。
  • 宦官たちは再び帝に訴え、翟超・黄浮も髠鉗のうえ右校へ送られた。陳蕃と司空劉茂は成瑨・劉瓆・翟超・黄浮らの罪を軽くするよう諫めたが、帝は喜ばず、有司に弾劾させた。劉茂は引き下がったが、陳蕃はなお独りで上疏した。

陳蕃・襄楷の諫言

  • 陳蕃は、外には寇賊、内には政治の乱れがあり、しかも帝は小人を寵して忠臣を刑し、梁氏誅滅の教訓も忘れていると厳しく諫めた。成瑨・劉瓆は赦後に殺したとしても、その本心は悪を除くことにあり、翟超・黄浮も公に奉じて私に屈しなかったのだから、重罰は過酷だと訴えた。だが帝は納れず、宦官たちはますます陳蕃を憎んだ。
  • 平原の襄楷も上疏し、太微・房心への金火の異常、酷寒・霜雹・雷雨などの災変を挙げ、これらは刑罰の苛酷さ、忠良を殺し賢者を誅する政治の感応だと説いた。梁氏・寇氏・孫氏・鄧氏の族誅、李雲・杜衆らの冤死も引き、いまの刑政は漢以来かつてないほど酷いと非難した。
  • また後宮の多さと子嗣のなさを結びつけ、河水清澄という異変についても、本来濁るべき河が清くなるのは臣下が主位を犯そうとする兆しだと論じたが、帝は省みなかった。

襄楷の再上書と仏・黄老批判

  • 十余日後、襄楷は再び上書し、宦官は天刑を受けた者であって寵愛を重ねるべきではないと述べた。皇嗣が生まれないのもそのためではないかと指摘した。
  • さらに宮中に黄老や浮屠の祠が立てられていることに触れ、その道は清虚・無為・好生・去奢を尊ぶのに、帝は欲を捨てず、刑罰も道理を越えているのだから、その加護など得られまいと論じた。浮屠の徒が桑の木の下に三宿しないのも恩愛にとらわれぬためだという例を引き、帝の淫楽を批判した。
  • 帝は襄楷を召して尚書に問い質させた。襄楷は、古くは宦官制度はなく、武帝末に後宮への出入りが増えてから設けられたにすぎないと答えた。尚書は宦官の意を受けて、襄楷は経義に背き星宿をこじつけていると奏したが、帝はその言が激烈でも天文の常数に基づくとして死罪にはせず、司寇の刑に処した。
  • 永平以来、民間には浮屠を学ぶ者がいたが、天子が篤く信じたのは桓帝が初めてであった。このため襄楷はこれを正面から批判したのである。

成瑨・劉瓆の死と賈彪・賈父

  • 蔡衍や劉瑜も成瑨・劉瓆救済を上表したが、ともに免官され、成瑨・劉瓆はついに獄死した。二人は剛直で経学にも通じ、当時名のある人物であったため、天下はこれを惜しんだ。
  • 岑晊と張牧は逃亡して助かった。岑晊が逃げたとき、親友たちは競って匿おうとしたが、賈彪だけは門を閉じて受け入れなかった。賈彪は、時を見て動いて後人に累を及ぼさぬべきであり、岑晊は君上を要して禍を招いたのだから、自らの咎だと述べ、世人もその裁断を是とした。
  • 賈彪は新息長のとき、子を養えぬ貧民が多いのを見て、嬰児殺しを殺人と同罪にした。あるとき南で盗賊殺人、北で母が子を殺した事件が起きたが、賈彪は常の賊害よりも母子相残が天理に背くとして北へ向かい、厳しく処断した。これを聞いて南の賊も自首した。数年のうちに養育される子が数千に増え、人々はその子らを「賈父の生んだ子」と呼んだ。

李膺・牢修上書と党錮の始まり

  • 河南の張成は風角の術を善くし、赦があると予言して子に人を殺させた。司隷李膺はこれを憎んで捕らえ、赦に遭ってもついに殺した。張成は方術で宦官と通じ、帝もその占いを多少信じていた。
  • 宦官は張成の弟子・牢修に命じて上書させ、李膺らは太学生や諸郡の生徒と結び、互いに往来して朋党をなし、朝廷を誹謗して風俗を乱していると告発した。
  • 帝は激怒し、郡国に布告して党人を逮捕し、三府の文案で取り調べさせた。太尉陳蕃は、今回取り調べられているのは海内の人望を集めた忠臣であり、本来なら十世にわたって許すべき人物たちだとして、署名を拒んだ。
  • 帝はいよいよ怒り、李膺らを黄門北寺獄へ下した。これは宦官専権下の特別な獄で、旧来の中都官詔獄とは異なるものであった。
  • その供述から、杜密・陳翔・陳寔・范滂ら二百余人にまで累が及び、逃亡者には賞金まで懸けられた。陳寔は、自分が出頭しなければ衆が頼るところを失うとして自ら赴いた。范滂は入獄に際し、獄吏の勧める皋陶への祭祀を拒み、皋陶は自分が無罪と知れば天帝の前で理を述べてくれるはずだと言った。
  • 陳蕃は再度極諫したが、帝はその言を忌み、蕃が辟召した人材に問題があったとの名目で罷免した。

皇甫規・杜密・鄭玄

  • 度遼将軍皇甫規は、西州の豪傑たる自分が党人弾圧に連ならないのを恥とし、自分は以前張奐を推薦したこと、また左校に送られたとき学生張鳳らが自分を弁護したことを挙げて、自分も党人に連なる者として処分すべきだと自ら申し出た。朝廷はその真意を知り、これを不問に付した。
  • 杜密は李膺と並び称される人物で、かつて北海相として行春の際に高密で鄭玄を郷嗇夫の地位にあるまま見出し、郡職に召して学問へ進ませ、大儒に育てた。
  • のち杜密が帰郷後、守令への進言が多かったのに対し、同郡の劉勝は閉門して一切関わらなかった。太守王昱がこれを引き合いに杜密を刺激すると、杜密は、朝廷の俸禄を受けながら善を薦めず悪を言わないのは責任放棄であり、自分は賢者を推し、不義の士を糾すことで政道を正しているのだと答えた。王昱は恥じ入って、ますます礼遇を厚くした。

秋九月以降 周景・宣酆・竇武・張奐

  • 九月、光禄勲周景が太尉となり、司空劉茂が免じられた。
  • 冬十二月、光禄勲の宣酆が司空となった。
  • 越騎校尉竇武は城門校尉となり、在任中は名士を多く辟召し、清廉で賄賂を通さず、家の衣食も必要最低限にとどめた。天子と皇后からの賞賜はすべて太学生や貧民に分け与えたため、世の賞賛が集まった。
  • 匈奴・烏桓は張奐の到着を聞くと相率いて帰降し、その数は二十万口にのぼった。張奐は首悪だけを誅し、その他はみな慰撫した。鮮卑だけは塞外へ退いた。
  • 朝廷は檀石槐を制御できず、印綬を授けて王に封じ、和親しようとしたが、檀石槐は受けず、侵掠はかえってひどくなった。彼は支配地を東・中・西の三部に分け、それぞれに大人を置いて統治した。