資治通鑑漢紀四十七 孝桓皇帝 延熹 八年 165年
春正月 老子祭祀と勃海王悝の事件
- 正月、帝は中常侍の左悺を苦県に派遣して老子を祀らせた。
- 勃海王悝は平素から険悪で不法が多く、北軍中候の史弼が、徒党を集めており、羊勝・伍被のような変事が起こりかねないと封事で警告した。親族への愛は必要だが、必ず威と制度をもって抑えるべきだと諫めたのである。
- 帝は聞き入れなかったが、悝はやはり不軌を企てた。有司は廃位を請い、帝は悝を癭陶王へ降し、一県のみを食邑とした。
晦日の食と侯参の検挙
- 丙申の晦日に日食が起こり、帝は公卿・校尉に賢良方正の挙薦を命じた。
- 千秋万歳殿が焼失した。
- 中常侍侯覧の兄・侯参は益州刺史として残虐で貪欲であり、私財は億単位に及んだ。太尉楊秉が檻車での召還を奏上すると、侯参は道中で自殺した。車を調べると三百両余に及び、金銀・錦帛が満載されていた。
- 楊秉はこれを機に、宦官は本来宮中の近侍にすぎないのに、今は政権を握り、法の上では王公並み、富では国家に比するほどになっていると痛烈に批判した。とくに侯覧も嫌疑を抱かれている以上、すみやかに遠ざけるべきだと奏した。
- 尚書は、三公が近臣を弾劾する典拠は何かと楊秉の属官を詰問したが、属官は『春秋左氏伝』と申屠嘉が鄧通を責めた前例を挙げ、三公の統轄権を主張した。帝はついに侯覧を免官した。
左悺・具瑗らへの追及と鄧皇后の廃位
- 司隷校尉韓縯は、左悺とその兄・太僕南郷侯称が州郡へ口利きをし、財貨を集め、賓客も横暴だとして弾劾した。左悺・称はともに自殺した。
- さらに中常侍具瑗の兄・沛相恭にも収賄の罪が及び、具瑗は侯印を返上して都郷侯へ降格された。超・璜・衡らの後継者もみな爵を下げられ、その一族で分封されていた者も爵土を失った。
- 帝の後宮には宮女が五、六千人もおり、さらに私的な使役に駆り立てられる者はその倍以上に達していた。鄧皇后はその尊位を頼んで嫉妬深く、帝の寵愛する郭貴人と互いに讒訴し合った。癸亥、帝は鄧氏を廃して暴室に送り、彼女は憂死した。河南尹鄧万世・虎賁中郎将鄧会も下獄されて誅された。
三月 赦令と李膺・馮緄・劉祐への圧迫
- 護羌校尉段熲は罕姐羌を破った。
- 三月辛巳、天下に大赦があった。
- 宛陵の豪族・羊元群は、北海郡から退任する際、郡役所の便所にまで奇巧な造作があると見れば持ち去るほどの貪汚を働いた。河南尹李膺がその罪を糾そうとしたが、羊元群は宦官に賄賂を贈り、逆に李膺が罪を得た。
- 単超の弟が山陽太守となって罪を犯し、廷尉馮緄が取り調べて死に至らせたが、中官たちは結託して馮緄を誣告した。
- 中常侍蘇康・管霸が天下の良田美産を私有しているのを、大司農劉祐が法に照らして没収しようとしたところ、帝は激怒し、李膺・馮緄・劉祐をいずれも左校へ送って労役に服させた。
夏四月・五月 淫祀の整理と楊秉の死
- 四月甲寅、安陵の園寝が焼失した。
- 丁巳、郡国の淫祀を廃し、雒陽の王渙と密県の卓茂の祠だけは残すよう詔した。
- 五月丙戌、太尉楊秉が薨じた。清白で欲が少なく、「自分には酒・色・財の三つの惑いがない」と常々語っていた。
劉瑜の上書
- 楊秉が推挙した賢良の広陵の劉瑜が都に着くと、宦官に養子で封爵を継がせること、宮女を無用に増やして国家を疲弊させること、邸宅造営のために山を削り石を掘って民を苦しめること、また姦吏が賄賂をむさぼって民が賊に走ることなどを厳しく論じた。
- さらに帝がしばしば微行して近臣や宦官の家に私かに赴くのも不適切だと指摘し、言路を開き、佞邪を遠ざけ、音楽や政治を正すよう求めた。
- 帝は特に劉瑜を召して災異の原因を問うた。執政者は答えをぼかさせようとしたが、劉瑜はなお八千余言にわたり率直に応え、議郎に任じられた。
荊州・交州の賊乱と張磐・度尚
- 荊州の兵である朱蓋らが反乱し、桂陽の賊胡蘭らと合流して再び桂陽を攻めた。太守任胤は城を棄てて逃れ、賊は数万となって零陵へ転じた。
- 零陵太守陳球は、湿地ゆえに木を編んで城をつくった土地で固守し、家族を避難させようという属吏の提案を怒って退けた。国を守る任を受けた者が妻子を顧みて威を失ってはならぬと言い、巨大な弓と矛で敵を射殺し、水攻めには逆に地勢を利用して水を返し、十余日持ちこたえた。
- ちょうど度尚が徴還されるところであったが、中郎将として三万余を率い陳球を救援し、諸郡兵も合わせて賊を大破、胡蘭ら三千余級を斬った。度尚はふたたび荊州刺史に任じられた。
- 蒼梧太守張叙は賊に捕らえられ、任胤とともに棄市された。胡蘭の残党は南へ逃れ、交趾刺史張磐がこれを破ったが、賊が再び荊州へ入ると、度尚は自らの責任を恐れて、蒼梧の賊が荊州へ入ったと偽って奏した。これにより張磐は廷尉に下された。
- 赦しにあっても、張磐は無実のまま出獄するのを恥とし、度尚を廷尉に召して対決させよ、そうでなければ獄中で骨を埋めると主張した。廷尉がその状を上奏し、ついに度尚が召され、弁明に窮して罪を受けたが、先の功績によって赦された。
閏月から秋 段熲の大戦果と陳蕃の太尉就任
- 閏月甲午、南宮の朔平署が焼けた。
- 段熲は西羌を撃って山谷を転戦し、春から秋まで一日も戦わぬ日はないほどで、ついに大いに破って散らし、二万三千余級を斬り、数万人を生け捕りにし、一万余落を降した。都郷侯に封ぜられた。
- 七月、太中大夫陳蕃が太尉となった。陳蕃は太常胡広や議郎王暢に譲ろうとしたが、帝は許さなかった。
王暢の為政と田租の新制
- 王暢は南陽太守であったころ、貴戚や豪族の横暴を憎み、着任早々に厳しく取り締まった。屋を壊し樹を伐り、井を埋め竈を壊すこともあったため、功曹張敞が、文翁・召父・卓茂らのように温厚な政こそ後世に聞こえるのだと諫めた。王暢はこれを受けて寛政へ転じ、教化を大いに行きわたらせた。
- 八月戊辰、郡国で田を持つ者から、一畝ごとに税銭を徴収する制度が初めて定められた。
- 九月丁未、京師で地震があった。
- 冬十月、司空周景が免じられ、太常劉茂が司空となった。劉茂は劉愷の子である。
冬十月 竇皇后の冊立
- 竇武の娘が貴人となっており、采女の田聖が帝に寵愛されていたため、帝は田氏を皇后に立てようとした。
- 司隷校尉応奉は、皇后の選定は国の興廃に関わるとし、趙飛燕の前例を引いて卑しい家や忌むべき家柄を避けるよう上書した。太尉陳蕃も、田氏は卑微で、竇氏こそ良家だとして強く争った。
- 帝はやむなく辛巳、竇貴人を皇后に立て、竇武を特進・城門校尉とし、槐里侯に封じた。
十一月以降 李膺らの赦免と張朔誅殺
- 十一月壬子、黄門北寺が焼けた。
- 陳蕃はしばしば李膺・馮緄・劉祐の冤罪を訴え、官爵の回復を求めた。言葉を尽くして涙ながらに説いたが、帝は聞き入れなかった。
- 応奉も上疏し、忠臣・武将は国家の心腹であり、冤に落ちた者たちは過去にも功績を立てた人物だとして赦免を求めた。帝はついにその刑を解いた。のち李膺は司隷校尉に復した。
- 小黄門張讓の弟・張朔は野王令として貪残無道であり、李膺の威を恐れて京師へ逃げ、兄の家の合柱に隠れた。李膺はこれを知ると柱を壊して捕らえ、雒陽獄に送り、取り調べを終えると即座に誅した。
- 張讓が帝に訴えると、帝は李膺を呼んで、なぜ先に奏請せず処刑したのかと責めた。李膺は、仲尼が魯の司寇として少正卯を七日で誅した故事を引き、自分も着任から十日あまりであり、ぐずぐずして罪を重ねるのを恐れたまでだと答えた。帝はそれ以上咎めず、「これはお前の弟の罪だ」と張讓に言った。以後、黄門常侍たちは皆、李膺を恐れて休暇にも宮外へ出なくなった。
- 朝廷の紀綱が日ごとに崩れるなか、李膺だけは風采と規範を保ち、士で彼に接引された者は「登龍門」と呼ばれた。
劉寛の徳政
- 東海相劉寛が尚書令に徴された。劉寛は温厚寛仁で、急場でも顔色を荒げず、吏民に過失があっても蒲鞭で辱める程度にとどめた。
- 父老には農事や里の話で慰め、若者には孝悌を勧めたので、人々は喜んで教化された。