資治通鑑漢紀四十六 孝桓皇帝 延熹 元年 158年
夏五月〜六月 日食・改元・梁冀への不満
- 夏五月晦日、日食が起こった。
- 太史令の陳授は、小黄門の徐璜を通じて、この天変の責任は大将軍梁冀にあると奏上した。
- 梁冀はこれを聞くと、洛陽令に圧力をかけて陳授を逮捕させ、獄死させた。皇帝はこの件で梁冀への怒りを深めた。
- 京師では蝗害が発生した。
- 六月、天下に大赦があり、年号を延熹と改めたうえで、干ばつに対する大規模な祈雨祭が行われた。
秋七月〜冬十月 人事と行幸
- 秋七月、太尉の黄瓊が罷免され、太常の胡広が太尉となった。
- 冬十月、皇帝は広成苑で狩猟し、そのまま上林苑にも行幸した。
十二月 北辺の騒乱と陳龜の上疏
- 十二月、南匈奴の諸部がいっせいに叛き、烏桓・鮮卑とともに辺境九郡を侵した。
- 朝廷は京兆尹の陳龜を度遼将軍に任じた。
- 陳龜は出発にあたり、并州・涼州では飢饉と災害で民が疲弊しているのに、辺境行政が中官の推薦や上意迎合で乱れ、将帥も忠実でないために胡虜を利していると上奏した。
- 彼は、良吏を登用して并・涼二州の当年の租更を免除し、罪人にも寛大な措置をとって民心を安んじ、匈奴中郎将・護烏桓校尉・護羌校尉なども適材に改めるべきだと進言した。
- 皇帝はこの意見を採り、幽州・并州の刺史以下に大きな人事刷新を加え、并・涼二州の一年分の租賦を免じた。
陳龜の赴任と張奐の活躍
- 陳龜が着任すると、州郡の官吏は震え上がり、行政の無駄が省かれ、歳ごとに巨額の節減が出た。
- また、安定属国都尉の張奐を北中郎将に任じて匈奴・烏桓討伐に当たらせた。
- 匈奴・烏桓は度遼将軍の営門を焼き、赤阬に陣を移して煙火を連ね、漢軍は恐慌に陥った。
- しかし張奐は幕中で落ち着いて門弟と講読を続け、軍心を鎮めたうえで、ひそかに烏桓を誘って匈奴と離反させ、匈奴の屠各の首領を斬らせ、その勢力を撃破した。
- 諸胡はみな降り、張奐は南単于車兒が国を統御できないとして拘束し、左谷蠡王を立てるよう奏請した。
- だが朝廷は、車兒は以前から漢に帰順しているとしてこれを許さず、彼を本国へ帰した。
陳龜の失脚と種暠
- 梁冀はかねて陳龜と不仲であり、彼が国威を損ねて私名を求めたと讒言した。
- 陳龜は召還され、代わって种暠が度遼将軍に任じられた。
- 陳龜はいったん帰郷を願ったが、のち再び尚書に召された。
- その後、梁冀の暴虐を弾劾し誅殺を求めたが、皇帝は取り上げず、陳龜は自ら危険を悟って七日間絶食し、ついに死んだ。
種暠の辺境経営
- 种暠はまず恩信を示して諸胡を降し、服さない者だけを討った。
- 以前に郡県で人質に取られていた羌胡を返還し、誠意ある懐柔と明確な賞罰を行ったため、羌胡は相次いで帰服した。
- その結果、烽燧や物見まで取り払えるほど辺境は安定し、种暠はのち大司農となった。