資治通鑑漢紀四十五 孝桓皇帝 建和 三年 149年

天変地異の続発

  • 夏四月晦日、日食があった。
  • 秋八月、天市に彗星が現れた。
  • 京師では大水が起きた。
  • 九月、地震があり、翌日にも再び地震があった。
  • 郡国では五つの山が崩れた。

三公の交代

  • 冬十月、太尉趙戒が罷免され、司徒袁湯が太尉となり、大司農張歆が司徒となった。

荀淑の死と名望

  • この年、前朗陵侯相の荀淑が卒去した。
  • 荀淑は博学で高行の人として知られ、李固・李膺もこれを師と仰いだ。朗陵では善政によって「神君」と称えられた。
  • 八人の子はいずれも名声があり、時人は一族を「八龍」と呼んだ。
  • その居住地はもと西豪里といったが、県令苑康が古例にならって高陽里と改名した。

李膺・陳寔・鍾皓らの徳望

  • 李膺は気位が高く、広く交際しなかったが、荀淑を師とし、陳寔を友とした。荀爽は李膺の車を御したことを喜んだという。
  • 陳寔は寒門の出であったが、鍾皓に見いだされて功曹となり、請託による人事にも節を守って郡守の名誉を保った。
  • のち太丘長となると、徳をもって治め、訴訟をいたずらに禁じず、民に自ずから争いをやめさせた。
  • 鍾皓もまた荀淑と並び称され、李膺は荀淑を清識、鍾皓を至徳として高く評価した。
  • 鍾皓の兄の子鍾瑾は退譲を重んじ、李膺から是非の心が薄すぎると評されたが、鍾皓は乱世には身と家を保つ道もまた貴いと諭した。