資治通鑑漢紀四十五 孝桓皇帝 建和 一年 147年

改元直後の異変

  • 春正月朔、日食があった。
  • 戊午、天下に大赦が行われた。
  • 三月、譙に龍が現れた。
  • 夏四月、京師で地震が起きた。

阜陵王家の継承

  • 阜陵王代の兄の勃遒亭侯便を阜陵王に立て、断絶していた王統を継がせた。

杜喬の登用

  • 六月、太尉胡広が罷免され、光禄勲杜喬が太尉となった。
  • 李固失脚以来、朝野は気落ちしていたが、杜喬だけは顔色を変えず、権勢にも屈しなかったため、内外ともに大きな期待を寄せた。

梁氏・宦官への論功行賞

  • 秋七月、勃海孝王鴻が子なく薨じたため、皇帝の弟蠡吾侯悝を勃海王としてその後を継がせた。
  • 策立の功により、梁冀の封戸はさらに増やされ、弟の不疑・蒙、子の祧、胡広、趙戒、袁湯、さらに中常侍劉広ら宦官にも列侯の爵が与えられた。
  • 杜喬は上奏して、国家は賢者を用い功ある者を賞することこそ本であり、即位直後に忠賢より先に外戚・宦官へ封賞を集中させるのは乱政のもとだと厳しく諫めたが、聞き入れられなかった。

梁皇后の立后

  • 八月乙未、梁氏が皇后に立てられた。
  • 梁冀は特別に豪奢な婚礼を行おうとしたが、杜喬は旧典に基づくべきだとして許さなかった。
  • 梁冀はなお汜宮を尚書に推そうとしたが、杜喬は賄賂の罪があるとして採用せず、これ以後ますます梁冀と対立した。

杜喬の失脚

  • 九月、京師で地震があり、杜喬は災異の責任をとる形で策免された。
  • 十月、趙戒が太尉、袁湯が司徒、胡広が司空となった。
  • 宦官の唐衡・左悺は、杜喬がかつて李固とともに桓帝即位に反対したと帝に讒言し、帝もこれを怨んだ。

清河王蒜事件と李固・杜喬の獄死

  • 十一月、清河の劉文と南郡の妖賊劉鮪が、清河王蒜を天子に立てようと企てたことが発覚した。清河相謝暠はこれを拒み、劉文に殺された。
  • この事件に連座して、清河王蒜は尉氏侯に落とされ、桂陽へ移され、自殺に追い込まれた。
  • 梁冀はさらに李固・杜喬も劉文らと通じていたと誣告し、逮捕を求めた。太后は杜喬の忠義を知っていたためすぐには許さなかったが、梁冀は李固を収監した。
  • 王調や趙承ら多くの者が自ら重刑具を帯びて宮門に訴え、太后は一時李固を赦した。李固が出獄すると、都の人々は万歳を叫んで喜んだ。
  • 梁冀はそれを見て恐れ、改めて前の事件を口実に李固を陥れた。長史呉祐は無実を訴えて争ったが、梁冀は聞かず、馬融は梁冀のために弾劾文を書いた。
  • 李固は獄中で死に臨み、胡広・趙戒に対し、王室を支えようとしてきたのに梁氏に迎合して国を危うくしたと嘆く書を送った。
  • 梁冀は杜喬にも自殺を迫り、従わないため逮捕して獄死させた。
  • さらに李固・杜喬の遺体を城北の四つ辻にさらし、弔うことすら禁じた。

忠臣の遺骸収容

  • 李固の弟子郭亮は、上書して遺体の引き取りを願い出、董班とともにその場で哭礼を尽くした。亭長に脅されても退かなかった。
  • 杜喬の旧掾楊匡も急ぎ洛陽へ来て、夏門亭の吏になりすまし、十二日間遺体を守った。
  • 太后は彼らを赦し、李固・杜喬の遺骨を故郷に返すことを許した。
  • 楊匡は杜喬を葬ったのち喪に服し、郭亮・董班とともに終生仕えなかった。

呉祐・朱穆の進言の再評価

  • 梁冀は呉祐を河間相へ左遷し、呉祐は自ら辞して家で亡くなった。
  • 劉鮪の乱を機に、梁冀は以前の朱穆の諫言を思い出し、种暠を従事中郎に、欒巴を議郎に、朱穆を侍御史に取り立てた。

匈奴の単于交代

  • この年、南単于兜楼儲が死去し、伊陵尸逐就単于の車児が立った。