資治通鑑漢紀四十四 孝順皇帝 永和 三年 138年
地震と地方反乱
- 春二月乙亥、京師と金城・隴西で地震があり、二郡では山が崩れた。
- 夏閏四月己酉、京師で再び地震があった。
- 五月、呉郡丞の羊珍が反乱して郡府を攻めたが、太守の王衡に破られ斬られた。
日南・九真への対応をめぐる論議
- 侍御史の賈昌が州郡と協力して区憐を討ったが勝てず、反攻を受けて一年余り包囲された。兵糧も尽きた。
- 皇帝は公卿・百官と四府の掾属を集めて策を諮り、多くは荊州・揚州・兗州・豫州から四万人を発して赴かせるべきだとした。
- 李固はこれに反対し、四州の兵を万里の外に送れば、現地の盗賊・蛮夷がさらに乱れ、兵は疲弊し、瘴気で多数が死に、兵糧輸送費も莫大になるとして七つの不利を挙げた。
- その上で、現地をよく知る刺史・太守を任じて交趾に駐させ、日南の吏民はいったん北に移して保護し、蛮夷を離間して互いに攻めさせる策を唱えた。さらに祝良・張喬を適任として推薦した。
- 四府は李固の議に従い、祝良を九真太守、張喬を交趾刺史に任じた。張喬は到着すると慰諭によって反乱側を離散させ、祝良は単車で賊中に入り威信を示して数万人を降し、彼らに官府まで建てさせた。こうして嶺外は再び平定された。
人事と周挙・左雄の論争
- 秋八月己未、司徒の黄尚が免官となった。
- 九月己酉、光禄勲の劉寿が司徒となった。
- 丙戌、大将軍・三公に命じて剛毅・武猛で将帥に任じうる者を各二人、特進・卿・校尉にも各一人ずつ推挙させた。
- 以前、尚書令の左雄が周挙を推して尚書にしたが、左雄が司隷校尉になると、周挙はかつての冀州刺史馮直を将帥として推薦した。馮直には収賄歴があったため、周挙は左雄を弾劾した。
- 左雄が「詔は武猛を選べと命じたのであり、清高を選べとは言わなかった」と言うと、周挙は「貪汚を選べとも言っていない」と応じ、趙宣子と韓厥の故事を引いて、公のための弾劾を恥としないと論じた。左雄はこれを認めて謝罪し、世間はますます周挙を賢いとみなした。
良賀の清廉
- 宦官たちが恩勢を売る中、大長秋の良賀だけは清廉で厚重だった。
- 人材推薦を求める詔に際しても、良賀は誰も推さず、自分には人物鑑識の明も士類との交際もないので、もし自分の推薦で登用されれば相手にとってむしろ辱めだと答えた。皇帝はその態度を賞した。
羌・宦官陰謀
- 冬十月、焼当羌の那離ら三千騎余りが金城を侵し、校尉の馬賢がこれを破った。
- 十二月戊戌朔、日食があった。
- 大将軍梁商は、小黄門の曹節らが宮中で権勢を振るうのに対し、子の梁冀と不疑を通じて親交を結ばせたが、宦官たちは逆に梁商の寵をねたんで陥れようとした。
- 中常侍の張逵・蘧政・楊定らは、梁商父子および中常侍の曹騰・孟賁が諸王の子を召して廃立を図っていると誣告した。皇帝は信じなかったが、彼らは恐れて偽詔を出し、曹騰・孟賁を省中で拘束した。
- 皇帝は激怒して李歙に命じ、二人をすぐ釈放させるとともに、張逵らを逮捕して獄に下した。