資治通鑑漢紀三十八 肅宗孝章皇帝上 建初 四年 79年

春二月・夏四月 太子冊立と諸王の移封

  • 春二月庚寅、太尉牟融が死去した。
  • 夏四月戊子、皇子慶を皇太子に立てた。
  • 己丑、鉅鹿王恭を江陵王に、汝南王暢を梁王に、常山王昞を淮陽王に移封した。
  • 辛卯、皇子伉を千乗王、全を平春王に封じた。

外戚封侯の実施

  • 有司は旧典を引いて再度、馬氏外戚への封侯を請うた。天下が豊かで内外も比較的安定していたため、皇帝はついにこれを断行した。
  • 癸卯、衛尉の馬廖を順陽侯、車騎将軍の馬防を潁陽侯、執金吾の馬光を許侯に封じた。
  • これを聞いた太后は、若い頃から身命より名節を重んじ、今もなお利得を戒めてきたのに、自分の遺志が老いても行われなかったと深く嘆いた。
  • 馬廖らは辞退して関内侯でよいと願い出たが、許されず、やむなく封を受けた上で辞職を願った。
  • 五月丙辰、馬防・馬廖・馬光はいずれも特進として邸第に退いた。
  • 甲戌、司徒鮑昱を太尉に、南陽太守桓虞を司徒に任じた。

六月 馬太后の崩御

  • 六月癸丑、皇太后馬氏が崩じた。
  • 皇帝は幼くして馬后に養われたため、馬氏のみを外家として重んじ、実母の賈貴人の一族には特別な恩寵を与えなかった。
  • 太后の死後も、賈貴人には赤綬・安車一駟・永巷の宮人二百・雑帛二万匹・黄金千斤・銭二千万を加えるにとどめた。
  • 秋七月壬戌、明徳皇后を葬った。

白虎観会議の準備

  • 校書郎楊終は、宣帝の石渠閣会議にならって、天下が平穏な今こそ諸儒を集めて五経の異同を定めるべきだと建議した。皇帝はこれに従った。
  • 冬十一月壬戌、太常に命じて大夫・博士・郎官・諸儒を白虎観に会集させ、五経の同異を議論させた。
  • 五官中郎将魏応が勅命を承って淳于恭に問答させ、皇帝はみずから判断を下し、その成果は『白虎議奏』としてまとめられた。
  • 丁鴻・楼望・成封・桓郁・班固・賈逵・広平王羨ら名だたる儒者が参加した。班固は班超の兄である。