資治通鑑漢紀三十八 肅宗孝章皇帝上 建初 二年 77年
春三月 伊吾盧撤兵と哀牢平定
- 春三月甲辰、伊吾盧の屯兵を廃した。匈奴は再び兵を送ってその地を守った。
- 永昌・越嶲・益州の三郡の兵と昆明夷の鹵承らは、博南で哀牢王類牢を大破し、これを斬った。
夏四月 楚・淮陽事件の連座者の帰還
- 夏四月戊子、楚王英事件および淮陽関係の獄に連座して流された四百余家を帰還させた。
外戚封侯問題と馬太后の厳格な抑制
- 皇帝は母方の舅たちを封侯しようとしたが、皇太后は許さなかった。
- 旱魃に際し、言上する者たちは外戚を封じないから天が応じないのだと述べ、有司も旧典に従うよう求めた。
- これに対して太后は、外戚の過度の隆盛はしばしば家を滅ぼすと戒め、明帝が意図的に馬氏を政権中枢から遠ざけたことを引いて、馬氏を陰氏に比べることはできないと明言した。
- また、自らは粗衣粗食で模範を示しているのに、親族は車馬・衣服・葬祭で奢侈に流れており、これこそ自分の教えが徹底していない証しだと嘆いた。
- 皇帝は、三人の舅が高齢や病弱であるため今のうちに恩典を与えたいと重ねて請うたが、太后はなお拒み、国内が安定し、陰陽が和してからにせよと諭した。皇帝はついに断念した。
太后の親族統制と内外の倹約化
- 太后は三輔の馬氏一族に、郡県への口利きや行政妨害があれば法に従って報告せよと命じた。
- 母の墓を高く造りすぎたとして兄の馬廖らに削らせるなど、身内にも厳しかった。
- 品行のよい外戚には温言と財貨・地位を与えたが、小さな非でもまず厳しい顔色を示し、華美な車服で法度に違う者は属籍を絶って郷里へ帰した。
- 一方で、広平王羨・鉅鹿王恭・楽成王党が質素な車騎を用いていると聞くと、太后は賞してそれぞれ銭五百万を賜らせた。
- こうして宮中も外廷も倹約に傾き、永平年間以上に人々は慎みを深めた。
- 太后は濯龍園で養蚕や織物を行わせ、自らしばしば見に行って楽しみとし、皇帝には日夜政道を語り、幼い諸王に『論語』や経書を教えさせた。
馬廖の上疏
- 馬廖は、制度だけ整えても上に立つ者が実行しなければ民は従わないとして、節倹を最後まで貫けば天下は自然に化すると上疏した。太后はこれを深く受け入れた。
羌族の反乱
- 金城郡安夷県の役人が羌人の妻を略取したことが発端となり、その夫が役人を殺した。安夷長の宗延が追って塞外に出ると、羌の人々は誅されることを恐れて宗延を殺した。
- これが勒姐・吾良の二種の羌と結びつく反乱へ発展し、さらに焼当羌の豪族迷吾が諸種を率いて呼応した。
- 迷吾らは金城太守郝崇を破り、朝廷は傅育を護羌校尉に任じて、安夷から臨羌へ治所を移させた。
- 迷吾はまた封養種の豪布橋らとともに五万余人で隴西・漢陽に侵攻した。
秋八月 馬防らの出征
- 秋八月、行車騎将軍の馬防、長水校尉の耿恭に北軍五校と諸郡の射士三万人を付けて羌討伐に向かわせた。
- 第五倫は、外戚を富ませるために封侯するのはよいが、実任を与えると法と恩義が衝突するとして、馬防の西征に反対した。しかし皇帝は従わなかった。
- 馬防らが冀に着くと、布橋らが臨洮で南部都尉を包囲していたため、これを撃破して四千余を斬獲し、包囲を解いた。
- その後、多くは降伏したが、布橋ら二万余人は望曲谷に拠ってなお服さなかった。
年末の出来事
- 十二月戊寅、紫宮に彗星が現れた。
- 皇帝は竇勲の娘を貴人とし、寵愛した。母は東海恭王の娘である沘陽公主であった。
- 第五倫はこの頃さらに上疏し、苛刻な官吏を能吏とみなす風潮を改め、仁厚な人物を登用すべきだと主張した。皇帝自身もまた、俗吏の苛刻を嫌い、寛厚を好む姿勢を示していた。