資治通鑑漢紀 世祖光武皇帝下 建武 二十八年 52年

春正月 魯・東海の封地調整

  • 春正月、魯王興を北海王に移し、魯国は東海王彊に加増された。
  • 帝は東海王彊がかつて皇太子の地位を辞して礼を守ったことを高く評価しており、二十九県を食ませ、虎賁・旄頭・鐘虡の楽まで与えて、天子に準ずる待遇をした。

夏六月 郭太后の死と諸王賓客の大獄

  • 夏六月、沛太后郭氏が死去した。
  • かつて馬援は、兄の婿で豪侠として知られる王磐について、廃れた王氏の一族であるのに京師を遊び、貴戚と交わって振る舞いが荒いから必ず破滅すると警告していた。後に王磐は罪を得て死んだ。
  • その子の王肅も王侯の邸宅に出入りしていた。当時は禁網がなお緩く、諸王が京師にあって名声を競い、遊士を招いていた。
  • 馬援は司馬の呂种に、国が安定してくるほど諸王の成長と賓客交通が危険になる、大獄が起こるだろうと予言していた。
  • この年、王肅らが罪人の家の者として諸王の賓客になっているとの上書があり、さらに更始帝の子・寿光侯劉鯉が沛王のもとで寵遇を得ていたことから、劉盆子への怨みで故式侯恭を結客して殺した事件まで起きた。
  • 帝は怒って沛王を詔獄に繋ぎ、三日後に釈放したのち、郡県に命じて諸王の賓客を大捜索させた。互いの密告が広がり、死者は千人に及んだ。呂种もこの災禍に連なり、臨終に馬援の先見を嘆いた。

秋八月 諸王の就国と太子傅の任命

  • 秋八月、東海王彊・沛王輔・楚王英・済南王康・淮陽王延が初めてそれぞれ国へ赴いた。
  • 帝は大いに群臣を会し、誰を太子の傅とすべきかを問うた。群臣は帝意を推し量り、太子の舅である執金吾の陰識を推した。
  • しかし博士の張佚は、太子を陰氏のために立てるのか、天下のために立てるのかと正面から論じ、天下の賢才を用いるべきだと主張した。
  • 帝はこれを称賛し、張佚を太子太傅、博士の桓栄を少傅に任じ、輜車・乗馬を賜った。
  • 桓栄は諸生を大いに集め、今日の栄達は古典を学んだ力によるのだとして励ました。

北匈奴との外交方針

  • 北匈奴が使者を送って馬・裘を献じ、あわせて和親・音楽・西域諸国を率いての入朝を求めた。
  • 帝は三府に諮問し、司徒掾の班彪が答申した。班彪は、北単于は南単于の帰附に動揺し、国力の虚を隠して大国ぶっているにすぎないと分析した。
  • ただし現状では南を助けて北を断つところまではできないから、完全に絶交するのではなく、羈縻の礼で応じるべきだとした。
  • その草稿では、呼韓邪と郅支の故事を引き、漢は諸国を公平に扱うが、善悪にははっきり報いること、北単于のたび重なる内乱と空虚化を指摘すること、そして音楽よりもいまは武備こそ必要であろうとして、弓矢や剣は賜っても楽器は送らないことを提案した。
  • 帝はこれを全面的に採用した。