資治通鑑漢紀 世祖光武皇帝下 建武 二十六年 50年

正月 官吏俸禄の改定と寿陵造営

  • 正月、百官の俸禄が増額された。千石以上は西漢旧制よりやや減る一方、六百石以下は増やされ、下級官吏を厚遇する形となった。
  • このころ寿陵の造営が始まった。帝は、古の帝王の葬送は瓦器や木車など簡素なもので、後世に陵の場所を知られぬようにしたこと、また漢の霸陵が変乱の中でも掘られず残ったことを称えた。
  • そのうえで、自身の陵も広さは二、三頃を超えず、山陵や池を築かず、わずかな流水を設ける程度にして、後世には丘墓と変わらぬ姿にしたいと命じた。

南匈奴の正式受封と雲中移住

  • 朝廷は中郎将の段彬、副校尉の王郁を南匈奴へ派遣し、その庭を五原塞西部から八十里の地に立てた。
  • 使者は単于に伏拝受詔を求め、単于はしばらくためらったのちに拝礼し、通訳を通じて「新しく立ったばかりで、左右の前で屈辱を受けるのは恥ずかしい」と述べた。
  • 帝は南単于の雲中移住を許し、はじめて使匈奴中郎将を置いて兵を率いさせ、その護衛監督に当たらせた。

夏・秋 北匈奴内部の再分裂

  • 夏、南単于が捕えていた北匈奴側の薁鞬左賢王が、自らの部衆と南部五骨都侯を合わせた三万余を率いて北方へ離脱し、北庭から三百余里の地で自立して単于を称した。
  • だが一か月余のうちに内戦となり、五骨都侯は皆死に、左賢王も自殺した。以後は各骨都侯の子がそれぞれ兵を擁して自守した。

秋 南単于の入侍・恩賜

  • 秋、南単于は子を漢に入侍させた。朝廷は単于に冠帯・璽綬・車馬・金帛・甲兵・什器を賜った。
  • さらに河東から米糒二万五千斛、牛羊三万六千頭を送って扶養し、中郎将に弛刑囚五十人を従えて単于のいる所に随行させ、訴訟の処理と情勢監察に当たらせた。
  • 以後、単于は年末ごとに使者を送り、侍子を入朝させ、漢は前の侍子を送り返し、単于や閼氏、左右賢王以下に大量の繒綵を賜ることを常例とした。

八郡の復興

  • これにより雲中・五原・朔方・北地・定襄・雁門・上谷・代の八郡の民は本土へ戻ることができた。
  • 朝廷は謁者に弛刑囚を分け与えて城郭修復に当たらせ、中国内へ移住させていた辺民も諸県へ帰還させ、装銭と食糧を支給した。
  • 城郭は多くが廃墟と化していたため、帝はかつて辺民を内地に移した政策を悔やんだ。

冬 南単于を美稷へ移す

  • 冬、南匈奴の五骨都侯の子が再び三千人を率いて南部に帰属したが、北単于の騎兵に追われ、ことごとくその衆を失った。
  • 南単于も兵を出して迎え撃ったが敗れたため、朝廷は改めて南単于を西河の美稷へ移すよう命じた。
  • 段彬・王郁をその地に留めて護衛させ、西河長史には毎年騎兵二千と弛刑囚五百人を率いて中郎将を補佐し、冬に駐屯して夏に解くことを恒例とした。
  • 南単于は美稷に移ってから諸部王を列置し、北地・朔方・五原・雲中・定襄・雁門・代郡で漢のために守備・偵察に当たるようになった。
  • 北単于は恐れ、掠奪した漢人を返して善意を示そうとし、南部を襲って帰る際にも、漢民を侵す意図はなく亡命部族を討っただけだと説明した。