資治通鑑漢紀三十一 淮陽王更始 二年 24年

春正月 劉秀の北行と危地脱出

  • 王郎勢力が急速に広がると、劉秀は北へ向かって薊を巡ろうとした。
  • そのころ申屠建・李松は長安から更始帝を迎えに出ており、更始帝も二月に洛陽を発つことになる。
  • 薊では邯鄲からの使者来着の噂で官吏が出迎えに出ており、城中も動揺していたため、劉秀は急いで城を脱出した。
  • 南へ逃れる途中、食糧も乏しく、蕪蔞亭では寒気の中で馮異が豆粥を供し、饒陽では伝舎の食を争うほど困窮した。
  • さらに滹沱河に至ると結氷が不十分と報告されたが、王霸がひとまず渡れると告げたため進軍し、到着までに氷がちょうど固まって辛うじて渡河できた。数騎が渡り終えたところで氷は解けた。
  • 南宮では風雨を避けて空き家に入り、馮異が薪を抱え、鄧禹が火を起こし、劉秀は竈の前で衣を乾かした。以後も下博の西へ進んだが、道に迷う中、白衣の老人が信都へ向かうべきだと教えたため、劉秀はそこへ急行した。

信都・和戎の確保

  • このとき王郎にまだ従わなかったのは、信都太守任光と和戎太守邳彤であった。任光は孤城の維持を不安に思っていたが、劉秀の到着を聞いて大いに喜び、吏民も万歳を唱えた。
  • 邳彤は、ここで長安へ逃げ帰れば河北を失い、三輔まで動揺すると論じ、二郡の兵をもって討てば王郎は恐るるに足らずと説いた。劉秀はこれに従い、西帰をやめた。
  • 劉秀は二郡の兵力だけでは不十分として、周辺県から精兵四千を集め、任光・李忠・邳彤・万修らを将軍に任じ、宗広に信都太守事を任せて軍を整えた。
  • 任光は檄を多く作り、「大司馬劉公が城頭子路・力子都の百万とともに東方から来る」と流布させたため、堂陽・貰などは動揺して次々に降った。

劉植・耿純の合流と中山方面の攻略

  • 劉秀は、東平の爰曾こと城頭子路、力子都ら大勢力に依拠しようと考えたが、その前に昌城の劉植が数千を率いて迎え、劉秀はこれを驍騎将軍に任じた。
  • 耿純も宗族・賓客二千余を率いて合流し、老病者には棺材まで載せて随行させるほど決意を示した。劉秀は耿純を前将軍とし、下曲陽を降した。
  • 兵はしだいに数万に増え、中山に進んで盧奴も攻略した。耿純は宗族の離反を防ぐため、従弟耿訢を帰して家屋を焼かせ、後顧の念を断った。
  • 劉秀は檄を辺郡へ飛ばし、邯鄲攻めへの協力を求め、諸郡県は再び響応し始めた。

真定王楊の帰順と河北での婚姻

  • 真定王劉楊は十余万を率いて王郎に附いていたが、劉植が説得すると降伏した。
  • 劉秀は真定にとどまり、劉楊の外甥にあたる郭氏を夫人に迎えて同盟を固めた。
  • その後、元氏・防子を下し、鄗では王郎将李惲を斬り、柏人では李育を破って城に追い込んだ。

延岑・賈復・祭遵

  • 漢中では南鄭の延岑が起兵したが、漢中王劉嘉がこれを降し、数十万の兵を得た。
  • 校尉賈復は更始政権の乱れを見て、劉嘉に対し、守っているだけでは国を保てないと説いた。劉嘉は自分には大事を担う器量がないとして、河北にいる劉秀へ賈復と陳俊を推挙した。
  • 二人が柏人で劉秀に会うと、賈復は破虜将軍、陳俊は安集掾に任じられた。
  • このころ、劉秀の宿舎に仕える少年が法を犯し、軍市令の祭遵がこれを即座に処刑した。劉秀は怒ったが、陳副が、法を私情で曲げぬことこそ軍を整える基本だと諫めたため、祭遵を赦し、刺姦将軍に取り立てた。

広阿占領と天下形勢の論議

  • 更始政権では、王莽に殺された鮑宣の子鮑永が河東・并州の安集を任され、青犢を大破して勢力を張っていた。馮衍も太原に屯して上党太守田邑らと兵備を整えていた。
  • 劉秀は柏人を固守するより鉅鹿を定めるべきだとの意見を受け、東北へ転じて広阿を奪取した。
  • 地図を広げて鄧禹に天下の郡国を示し、「いま得たのはようやくその一つにすぎぬ」と語ると、鄧禹は、天下の帰趨は領土の大小ではなく徳の厚薄で決まると応えた。

上谷・漁陽の兵が劉秀へ合流

  • 薊の混乱のあと、耿弇は北の昌平へ走り、父耿況に邯鄲討伐を勧めた。
  • 上谷では功曹寇恂や門下掾閔業が、王郎はにわかに起こった存在で頼むに足らず、劉秀は劉伯升の弟で尊賢下士の人物だから帰すべきだと説いた。
  • 寇恂は漁陽の彭寵とも連絡を取り、各二千騎と千歩兵の拠出を提案した。彭寵のもとでも吳漢・蓋延・王梁らが劉秀支持を勧めていた。
  • たまたま吳漢は外亭で一儒生から「劉公は各郡県で歓迎され、邯鄲で帝を称する者は劉氏ではない」と聞き、その内容を偽書の形にして彭寵へ伝えさせた。寇恂も来着したため、彭寵はついに歩騎三千を出した。
  • こうして漁陽・上谷の軍は南下し、王郎の大将を次々斬り、涿郡・中山・鉅鹿・清河・河間の二十二県を平定した。

広阿での会師

  • 広阿の城下に車騎の多い軍が現れたため、城内では初め王郎軍が来たと恐れた。
  • 劉秀が西城楼から兵を問いただすと、耿弇らが城下で拝礼し、上谷・漁陽から来た味方であることが分かった。
  • 劉秀は諸将を城に招き入れ、「邯鄲の将帥がたびたび『お前は漁陽・上谷の兵を発したと言う』ので、こちらも戯れに『そうだ』と答えていたが、まさか本当に来るとは思わなかった」と笑い、共に功名を立てようと励ました。
  • 景丹・寇恂・耿弇・蓋延・吳漢・王梁を偏将軍とし、耿況・彭寵には大将軍を加え、耿況・彭寵・景丹・蓋延を列侯に封じた。吳漢は口数こそ少ないが沈着で智略があり、鄧禹の推薦もあって次第に重んじられた。

謝躬との合軍と南𣳘の戦い

  • 更始帝は尚書令謝躬に六将軍を率いさせ、王郎を討たせていたが、成果が出ないうちに劉秀軍と合流した。
  • 劉秀は鉅鹿を一か月余り囲んだが落とせず、王郎方が信都を攻めると、信都の大姓馬寵らが城門を開いて内応した。しかし更始方の兵が奪回し、劉秀は李忠を返して太守事を行わせた。
  • 王郎は倪宏・劉奉ら数万を派遣して鉅鹿を救わせ、南𣳘で劉秀軍と戦った。はじめ劉秀は不利だったが、景丹らが突騎を放って敵を大破した。
  • 劉秀は突騎の精強を称賛し、耿純の提案で鉅鹿包囲をやめ、主力で邯鄲に進む決断を下した。

夏四月~五月 邯鄲攻落と王郎誅殺

  • 四月、鄧満を残して鉅鹿を守らせ、劉秀は邯鄲へ進軍した。連戦して王郎軍を破ると、王郎は諫大夫杜威を使者に立て、降伏の条件交渉を試みた。
  • 杜威は王郎こそ成帝の遺体だと称したが、劉秀は「たとえ成帝が生き返っても天下を得られぬのに、まして偽の子輿が得られるはずがない」と退けた。
  • 王郎側は万戸侯を要求したが、劉秀は命が助かるだけでもありがたいと思えと答えた。
  • 二十余日の猛攻の末、五月甲辰、王郎の少傅李立が城門を開いて内応し、邯鄲は陥落した。王郎は夜逃げしたが、王霸が追ってこれを斬った。

王郎関係文書の焼却

  • 劉秀は邯鄲で押収した文書から、吏民が王郎と通じて劉秀を誹謗した文書数千通を見つけた。
  • しかし中身を読まず、諸将を集めて焼き払い、「人心が揺れた者たちを安心させよ」と命じた。
  • これによって反側していた者たちは安堵し、河北平定は一段と進んだ。

馮異「大樹将軍」

  • 劉秀が兵士を諸軍に再配属すると、多くの兵が「大樹将軍の配下に入りたい」と願い出た。
  • それは偏将軍馮異のことで、謙退して功を誇らず、戦闘時以外はいつも諸営の後方を巡察し、宿営先では諸将が座して功を論じる中、自分だけは木の陰に退いていたため、軍中でそう呼ばれるようになっていた。

朱祜の進言と劉秀の慎み

  • 護軍朱祜は、劉秀には日角の相があり、これは天命のしるしだと述べた。
  • 劉秀はこれを危険な発言として刺姦に捕らえさせようとしたため、朱祜は以後そのようなことを口にしなくなった。

更始帝、劉秀を蕭王に封じる

  • 更始帝は使者を送って劉秀を蕭王に立て、兵を解いて功臣たちとともに行在所へ参内するよう命じた。
  • さらに苗曾を幽州牧、韋順を上谷太守、蔡充を漁陽太守として北方へ派遣した。

耿弇の進言と更始政権への離反の芽

  • 邯鄲宮の温明殿で休んでいた蕭王のもとに耿弇が入り、兵士の損耗が大きいので上谷へ帰って兵を補うべきだと申し出た。
  • 蕭王が、河北はほぼ平らいだのになぜまだ兵が要るのかと問うと、耿弇は、天下の兵乱はむしろこれからで、銅馬・赤眉など数十派、数十万・百万単位の群賊が各地にあり、更始帝には処理できず、敗亡は遠くないと断じた。
  • さらに、百姓は王莽の苛政から解放されたと喜んだが、更始帝のもとでは山東で将軍が勝手に振る舞い、都では外戚が横暴で、民はむしろ王莽時代を恋しがるほどだと述べ、天下は蕭王自身が取るべきだと進言した。
  • 蕭王は表向きこれを退けたが、河北未平を理由に徴召に応じず、更始帝と次第に距離を置くようになった。

秋 銅馬・諸賊との戦い

  • このころ、銅馬・大彤・高湖・重連・鉄脛・大槍・尤来・上江・青犢・五校・五幡・五楼・富平・獲索など、名を異にする大群盗が各地に割拠し、総数は数百万に達した。
  • 蕭王はこれらを討つため、吳漢・耿弇をともに大将軍とし、幽州十郡から突騎を徴発させた。
  • だが苗曾はひそかに各郡へ命じて応じさせまいとしたため、吳漢はわずか二十騎で無終に急行し、苗曾を迎えたところでその場で捕らえて斬った。耿弇も上谷で韋順・蔡充を斬り、北州を震撼させて兵を発せしめた。

銅馬の降服

  • 蕭王は鄡で銅馬を攻め、清陽で吳漢の突騎と合流した。吳漢は兵簿をすべて莫府に提出し、配属を仰いで私しなかったため、蕭王はますます信頼した。
  • 蕭王は朱浮を大将軍・幽州牧として薊に治めさせた。
  • 銅馬は食糧が尽きて夜に逃げたが、館陶で追撃され大敗した。さらに高湖・重連が東南から来て銅馬残党と合流すると、蒲陽で再び大破され、ついに大勢が降伏した。
  • 諸将も降人も互いに疑っていたため、蕭王は降兵をいったんそれぞれの営に返したうえで、自ら軽騎で各陣を巡察した。降兵たちは「蕭王は赤心を人の腹に置くように信じてくれる」と語り合い、これ以後よく服した。
  • こうして降兵は諸将へ配属され、軍勢は数十万にふくれ上がった。

射犬・河内平定

  • 赤眉別働隊と青犢・上江・大彤・鉄脛・五幡ら十余万が射犬にいたため、蕭王は進撃して大破した。
  • その後、河内を南へ巡り、河内太守韓歆も降った。

謝躬の滅亡

  • 謝躬はかねてから劉秀と不和で、たびたび背く素振りを見せていた。邯鄲でも城内を分けて駐屯していたが、劉秀はなお労をねぎらい、彼を有能な吏と称えて安心させていた。
  • 妻は虚言にすぎず、いずれ劉公に制せられると忠告したが、謝躬は聞かなかった。
  • その後、謝躬は数万を率いて鄴に戻り、劉秀が南で青犢を討つ間に、尤来を隆慮山で邀撃しようとして大敗した。
  • 劉秀はこの機を逃さず、謝躬が外にいる間に吳漢と岑彭に鄴を襲わせ、帰ってきた謝躬を捕えて斬った。配下の兵はすべて降伏した。

蜀で公孫述が自立

  • 更始帝は李宝・李忠に一万余の兵を与えて蜀方面を巡らせたが、公孫述は弟公孫恢に綿竹で迎撃させ、大破して追い払った。
  • 公孫述はそのまま自ら蜀王を称し、成都を都とした。民も夷もこれに従った。

匈奴との関係

  • 更始帝は中郎将帰徳侯颯と大司馬護軍陳遵を匈奴へ派遣し、漢の旧制による単于の璽綬を授け、王莽のもとにいた人質や貴人らも返還した。
  • しかし単于は、匈奴はもともと漢と兄弟関係であり、王莽期に自分たちも出兵して漢復興に寄与したのだから、今後はむしろ自分を尊ぶべきだと主張した。
  • 使者側はこれを認めず論争したが、単于は最後まで譲らなかった。

赤眉、西進を決断

  • 樊崇ら赤眉は戦では勝ちながらも疲弊し、兵たちは日に日に東帰を望んで泣いた。
  • 首領たちは、東へ帰れば兵が散るだけだと考え、むしろ西へ向かって長安を攻める策を選んだ。
  • 樊崇・逢安らは武関から、徐宣・謝禄・楊音らは陸渾関から、それぞれ関中へ入ることを決めた。

更始政権の関中支配とその不安

  • 更始帝は長安に入り、三輔では王莽打倒に加わった豪傑たちがみな封侯を望んでいた。
  • 申屠建が王憲を斬ったうえ、「三輔の者は狡猾で主を殺した」と言い広めたため、吏民は不安となり、属県は群れて屯聚した。更始帝が大赦を出し、王莽の子を除き罪を赦すと、ようやく三輔は平定した。
  • 長安では未央宮だけが焼け残りを除いて被災していたが、他の宮室・倉庫・官府はほぼ旧態を保っていた。更始帝は長楽宮に入り、前殿に登ると、郎吏が庭中に並ぶ威儀に恥じ入って席を見つめ、顔を上げられなかった。
  • 後から来た諸将に対しては、掠め取った財物の数を尋ねるばかりで、古くから宮中に仕えた吏たちは驚いて顔を見合わせた。

諸王封建と政権の乱れ

  • 李松と趙萌は、功臣たちを広く王に封ずるべきだと説いたが、朱鮪は高祖の「劉氏にあらざれば王とせず」の約を理由に反対した。
  • それでも更始帝はまず宗室を王に封じ、その後、王匡・王鳳・王常・申屠建・陳牧・張卬・廖湛・胡殷・李通・李軼・成丹・宗佻・尹尊ら多くの功臣を各地の王に立てた。朱鮪だけは辞退して受けなかった。
  • 朱鮪を左大司馬、宛王劉賜を前大司馬とし、李軼らとともに関東を鎮撫させ、李通は荊州、王常は南陽を担当させた。内政は李松と趙萌が握った。
  • 更始帝は趙萌の娘を夫人としたため、政事を萌に委ね、日夜後庭で飲宴した。群臣が政務を奏そうとしても酔って会えず、やむなく帷中の侍中を通じて話すほどであった。
  • 韓夫人はとくに酒を好み、奏事のたびに怒って書案を打ち壊した。趙萌は専横し、生殺与奪をほしいままにした。
  • これを諫めた郎吏が斬られて以後、誰も口を閉ざし、果ては厨房の者や小人まで濫りに官爵を受けるようになった。長安では「竈の下で養えば中郎将、羊の胃が煮えれば騎都尉、頭まで煮えれば関内侯」と嘲る歌が流行した。

李淑の諫言と更始政権の失望

  • 軍師将軍李淑は上書し、更始帝の成業は下江・平林の兵勢を借りた一時の便宜にすぎず、平定後までそのまま用いてはならないと諫めた。
  • 名器は聖人が重んじるものであり、不適任者へむやみに与えても国家の益にならぬ、これは木に登って魚を求め、山に登って珠を採るようなものだと批判した。
  • しかし更始帝は怒って李淑を獄につないだ。
  • 諸将は外にあって勝手に誅賞を行い、各自で牧守を置いたため、州郡の命令系統は錯綜し、どこに従うべきか分からなくなった。こうして関中は離心し、四海も怨叛していった。

隗囂の入朝と方望の離去

  • 更始帝が隗囂と叔父隗義らを徴すと、軍師方望は更始政権の成敗はまだ見通せないとして強く引き止めた。
  • 隗囂はこれに従わず、方望は書を残して別れた。
  • 長安へ来た隗囂は右将軍に任じられ、隗義らも旧号のまま任用された。

耿弇の離脱と劉秀への帰属

  • 耿況の子耿弇は奏上文を奉じて長安へ向かったが、宋子で王郎の反乱に遭遇した。
  • 従吏の孫倉・衛包は「劉子輿こそ成帝の正統だから、これに帰せ」と勧めたが、耿弇は剣を按じて、王郎はしょせん敗れて降虜となる賊徒にすぎず、自分は上谷・漁陽の突騎をもってその烏合を粉砕すると言い放った。
  • 孫倉・衛包は王郎に降ったが、耿弇は盧奴にいた劉秀のもとへ馳せ参じ、長史に任じられて以後行動をともにした。

年末までの余勢と各地の群雄

  • 蕭王は河北で勢力を拡大しつつ、銅馬・青犢・尤来ら群賊を服属させ、河内・魏郡一帯も掌握していった。
  • この一方で、更始政権の外では諸勢力が独自に伸長した。梁王劉永は東方で二十八城を得て、周建・佼彊・董憲・張歩らと連携した。
  • 南方では秦豊が黎丘を拠って楚黎王を称し、田戎も夷陵を陥れて掃地大将軍を号し、郡県を攻掠して数万を集めた。
  • 天下はなお群雄割拠のままであり、更始政権の統制はすでに大きく揺らいでいた。