資治通鑑漢紀十七 中宗孝宣皇帝 元康 二年 前64年

春正月二月:皇后冊立

  • 春正月、天下に赦があった。
  • 宣帝は皇后を立てようとしたが、館陶主の母である華倢伃、淮陽憲王の母である張倢伃、楚孝王の母である衛倢伃がいずれも寵愛されていた。とくに張倢伃を立てようと長く考えた。
  • しかし霍氏が皇太子を害そうとした前例を戒め、あらためて後宮のうち子がなく慎み深い者を選んだ。
  • 二月乙丑、長陵の王倢伃を皇后に立て、皇太子を養育させた。父の王奉光は邛成侯に封じられた。
  • 王皇后は特別の取り立ての機会が少なく、進見もまれであった。

五月:裁判と行政への戒め、皇帝諱の改定

  • 五月、宣帝は、獄は万民の命に関わるのに、近頃の文吏は法をこね回し、解釈を二通りにして軽重を出し入れし、上奏も真実に合わないと詔した。二千石には属吏をよく見て、こうした者を用いぬよう命じた。
  • また、吏が勝手に徭役を興し、駅伝や供応を飾り立てて名誉を得ようとするのは危ういことだと戒めた。
  • さらに疫病の災いを憐れみ、被害の甚だしい郡国にはその年の租賦を免除した。
  • 加えて、天子の名は知りがたく避けやすいのが古制だとして、自身の諱を「詢」へ改めた。

車師をめぐる対匈奴方針

  • 匈奴の大臣たちは、車師の地は肥沃で匈奴に近く、漢に確保されて屯田・積穀されれば自国に害となるとして、しばしば車師の屯田兵を攻撃した。
  • 鄭吉は渠犂の屯田兵七千余を率いて救援したが、匈奴に包囲され、車師は渠犂から千余里も離れていて兵が足りないので増兵を願い出た。
  • 宣帝は趙充国らと相談し、匈奴の衰えに乗じて右地を攻め、西域を乱せなくしようと考えた。
  • これに対し魏相は上書して、兵には義兵・応兵・忿兵・貪兵・驕兵の別があり、今の出兵はどれに当たるのかと問うた。敵に大義がある場合以外に怒りや利欲で起こす兵は敗滅を招くとし、今は辺郡が疲弊し、内政にも大きな問題があるのに、遠方の小さな争いのために兵を興すべきでないと諫めた。
  • また、今年だけでも子が父兄を、妻が夫を殺した事件が二百二十二件に及ぶことを挙げ、憂うべきはむしろ国内だとした。
  • 宣帝はこの諫言に従い、大規模出兵を取りやめ、長羅侯常惠に張掖・酒泉の騎兵を率いさせて、鄭吉とその兵を車師から渠犂へ撤収させた。
  • さらに、焉耆にいた旧車師太子軍宿を呼び戻して王に立て、車師の民はすべて渠犂へ移し、旧車師の地そのものは匈奴に譲った。
  • 鄭吉は衛司馬となり、鄯善以西南道の保護にあたった。

魏相・丙吉の輔政

  • 魏相は漢の旧事や便宜の奏章を好んで読み、建国以来の施策や、賈誼・鼂錯・董仲舒らの議論を整理して、実施を奏請した。
  • さらに属吏に命じて郡国の実情を調べ、休暇から戻った者からも四方の異聞を報告させ、逆賊・風雨・災変を郡が上げてこないときはみずから奏上した。
  • 丙吉も魏相と心を合わせて政を補佐し、宣帝はいずれも重んじた。
  • 丙吉は厚重で、自らの善行を誇らず、皇曾孫時代の恩も口にしなかったため、朝廷では彼の功績を詳しく知る者が少なかった。

丙吉の旧恩が明らかになる

  • 掖庭の宮婢の則が、民夫となった夫を通じて、自分にもかつて皇曾孫を保育した功があると上書した。
  • その章が掖庭令に下されて調べられると、丙吉は事情を知っていたので、掖庭令が則を連れて来た際、「お前は皇曾孫の養育で督責を怠り笞たれたではないか。功があるとは言えない」と告げた。
  • そして、真に恩があるのは渭城の胡組と淮陽の郭徴卿だとして、二人の養育の苦労を区別して奏上した。
  • 詔で調べると両人はすでに死んでいたため、その子孫に厚賞が与えられ、則は庶人に落として銭十万を賜った。
  • 宣帝はこのとき初めて、丙吉に自分への旧恩があったことを知ったが、吉は最後まで自ら語らなかった。宣帝は彼を大いに賢とした。

蕭望之の再任と張安世

  • 宣帝は蕭望之が経学に明るく、持重で、宰相の器量があると見て、なお政事の経験を詳しく試すため、再び左馮翊に任じた。
  • 望之は、少府から地方官へ出るのは左遷のように感じ、意に合わなければ病を理由に辞そうと考えたが、宣帝は金安上を通じて、これは民政経験を積ませて功績を考課するためであって、短所を聞いたからではないと諭し、望之は就任した。
  • 張安世については、かつて掖庭令の張賀が皇曾孫の才をしばしば讃えたが、安世は軽々しく言うべきでないと制していた。
  • 宣帝は即位後、その恩を思って張賀の墓を「恩徳侯」として封じ、守墓二百家を置きたいと望んだ。張賀には実子が早世しており、安世の末子彭祖を後継としたが、安世は深く辞退し、守墓戸数の削減を願い出て、最終的に三十戸まで減らした。
  • 宣帝は「私は掖庭令のためにするのであって、将軍のためではない」と言って安世の遠慮を退けた。

故昌邑王賀への警戒

  • 宣帝はなお故昌邑王賀を内心警戒し、山陽太守張敞に密書を与えて、その動向を注意深く監視させた。
  • 張敞は賀の容貌・挙動・言辞を細かく観察し、精神が清狂で不慧であり、仁義を理解しないと上奏した。
  • たとえば梟の話をふって反応を見たり、哀王園を守る宦官たちを病や争いで死なせたがっている様子などを報告し、天性として乱亡を好む人物だと述べた。
  • 宣帝はこれにより、賀はもはや大きな脅威ではないと知った。