資治通鑑漢紀十五 孝昭皇帝上 元鳳 三年 前78年
春:怪異と眭弘の上書
- 正月、泰山で大石がひとりでに立ち上がり、上林では枯れて倒れていた柳が起き上がって生き返った。
- また虫がその葉を食って「公孫病已立」という文字を成した。これはのちに民間から起こる宣帝の興起を暗示するものと受け止められた。
- 符節令の魯国人・眭弘は上書して、大石が自ら立ち、枯柳が再生したのは、匹夫の中から天子が出るしるしであり、廃絶した家の公孫氏が再び興るのではないか、漢家は堯の後裔として天命を受けているのだから、賢人を求めて禅譲し、帝は百里の地に退いて天命に従うべきだと述べた。
- 眭弘は妖言で衆を惑わした罪により処刑された。
匈奴の張掖侵入と撃退
- 匈奴の単于は犂汙王に辺境を探らせ、酒泉・張掖の兵力が弱まったから攻めれば旧地を回復できるかもしれないと考えた。
- しかし漢は先に降人からこの計画を知り、辺境に警戒を命じていた。
- まもなく右賢王・犂汙王ら四千騎が三隊に分かれて日勒・屋蘭・番和へ侵入した。
- 張掖太守と属国都尉が兵を出して大破し、逃れた者は数百に過ぎなかった。
- 属国の義渠王が犂汙王を射殺したため、黄金二百斤・馬二百匹が与えられ、さらに犂汙王の号を賜った。
- 以後、匈奴は張掖に侵入することを恐れるようになった。
桑弘羊の遺党をめぐる獄
- 燕王・蓋長公主の乱の際、桑弘羊の子の桑遷が逃亡し、父の旧吏である侯史吳のもとに身を寄せた。
- のちに桑遷は捕らえられて処刑されたが、大赦があったため、侯史吳は自ら出頭して獄に繋がれた。
- 廷尉の王平と少府の徐仁は共同で取り調べ、桑遷は父の謀反に連座した者であって、侯史吳は謀反人そのものを匿ったのではなく、連座者を匿ったにすぎないとして、赦令により侯史吳を免罪とした。
- ところが後に侍御史が実地で調べ直し、桑遷は経書に通じ、父の反逆を知りながら諫めなかった以上、反者本人と同じであり、侯史吳も単なる連座者の匿匿ではなく、謀反人を率先して匿ったに当たるとして、再審を求めた。
- その結果、廷尉王平と少府徐仁は反逆者を故意に放免した罪に問われた。
- 徐仁は丞相車千秋の女婿であったため、車千秋はたびたび侯史吳を弁護した。
- 霍光が聞き入れないのを恐れた車千秋は、中二千石や博士を公車門に集めて、侯史吳の法的扱いを討議させた。
- 参加者たちは大将軍の意向を察して侯史吳を不道と断じたが、車千秋はその議決を封じて上奏した。
- 霍光は、丞相が勝手に内外の朝議を混乱させたとして、王平・徐仁を下獄した。朝廷は車千秋まで連座するのではと恐れた。
杜延年、丞相を救う
- 太僕の杜延年は霍光に書を送り、侯史吳を不道とするのは法の適用が重すぎるうえ、車千秋はもともと一貫した主張に乏しいが、ただ人に好く話しかける平生の性格から動いたのであって、悪意ある専断ではないと弁じた。
- また、車千秋は先帝以来の旧臣であり、民間では近ごろ獄が深刻で官吏の法運用が峻酷だと語られている以上、この件で丞相まで切り捨てれば衆心を失い流言を招く、と諫めた。
- 霍光は、廷尉と少府は法を弄んだとして結局下獄したが、丞相車千秋には及ぼさず、そのまま任期を終えさせた。
- 夏四月、徐仁は自殺し、王平と左馮翊の賈勝胡は腰斬となった。
- 杜延年のこうした平正な議論は、朝廷内の調和に資するものとして評価された。
冬:烏桓の反乱と対処
- 冬、遼東の烏桓が反乱した。
- 烏桓と鮮卑は、かつて冒頓単于に破られた東胡の残党が、烏桓山・鮮卑山に保って二族となったものである。
- 武帝の時、匈奴左地を破ったのち、烏桓を上谷・漁陽・右北平・遼東の塞外に移し、匈奴の動静を偵察させるとともに、護烏桓校尉を置いて統制していた。
- しかしこのころには部衆が次第に強くなり、反乱に至った。
- これより前、匈奴三千余騎が五原に侵入して数千人を殺略し、その後も数万騎で塞に沿って狩猟・侵攻し、亭障を攻めて吏民を連れ去った。
- ただし当時の漢の辺境は烽火と候望が整っており、匈奴は侵入しても利益が少なかったので、次第に犯塞が減っていた。
- そのころ再び匈奴からの降者が、烏桓が先単于の墓を暴いたため、匈奴が二万騎を発して烏桓を討とうとしていると知らせた。
- 霍光は漢兵を出してこれを迎撃しようとし、護軍都尉の趙充国に諮問した。
- 趙充国は、烏桓は近ごろたびたび塞を犯しており、いま匈奴がこれを撃つのは漢にとって都合がよい、蛮夷同士が争っているところへわざわざ兵を出して迎え撃つのは、かえって寇を招き事を生むと反対した。
- しかし霍光がさらに中郎将范明友に問うと、范明友は攻撃を主張したため、范明友を度遼将軍に任じ、二万騎を率いて遼東から出撃させた。
- 匈奴は漢兵が来たと聞いて退いた。
- 霍光は、兵を空しく出すなと范明友に命じていたため、范明友は匈奴を迎え撃つ機を失うと、そのまま匈奴軍に痛めつけられて弱っていた烏桓を襲い、六千余級を斬り、三王の首を得た。
- これ以後、匈奴は漢の北辺へ大軍を出しにくくなった。