資治通鑑漢紀十五 孝昭皇帝上 元鳳 四年 前77年

春:元服

  • 正月丁亥、帝は元服を加えた。

丞相田千秋の死

  • 甲戌、富民定侯の田千秋が死去した。
  • このころ政事はすべて霍光が決し、田千秋は丞相の位にあって謹厚に身を守るだけであった。

孝文廟の火災

  • 夏五月丁丑、孝文廟の正殿が焼けた。
  • 帝も群臣もみな素服し、中二千石を動員して将作五校に修復させ、六日で完成させた。
  • 太常および廟令・丞・郎吏は大不敬として弾劾されたが、ちょうど赦令があったため、太常の轑陽侯徳は免官されて庶人となるにとどまった。

夏:大赦

  • 六月、天下に大赦が行われた。

西域:楼蘭王暗殺と鄯善建国

  • かつて杅罙は、その太子頼丹を亀茲に人質として送っていた。
  • 李広利の大宛遠征から帰る際、頼丹も京師へ連れて来られ、霍光は桑弘羊の以前の建議を用いて、頼丹を校尉として輪台に屯田させた。
  • これに対し、亀茲の有力者姑翼は、その王に対して、頼丹はもともと亀茲の臣属であったのに、いまや漢の印綬を帯びて戻り、領土を開いて迫ろうとしているから危険だと説いた。
  • そこで亀茲王は頼丹を殺し、漢へ上書して謝罪した。
  • また楼蘭王が死ぬと、匈奴は漢より先にその人質であった安帰を送り返し、王位に就けた。
  • 漢は新王に入朝を命じたが、楼蘭王は辞退して来なかった。
  • 楼蘭は西域の東端にあり漢に近く、白龍堆に面して水草に乏しかったため、しばしば漢使の案内や水・食糧の輸送を負担していた。
  • そのうえ漢の吏卒から略奪も受けていたため、漢と通じることを嫌い、のちには匈奴のために間諜となって何度も漢使を遮殺した。
  • その弟の尉屠耆が漢に降り、事情を詳しく訴えた。
  • 北地の駿馬監であった傅介子が大宛への使節となった際、詔により楼蘭と亀茲を責めさせた。
  • 傅介子が至って責任を問うと、両国王はいずれも謝罪して服した。
  • 帰路、亀茲で匈奴使が烏孫から戻って滞在していたため、傅介子は吏士を率いてその匈奴使者を斬り、帰国して報告し、中郎、ついで平楽監に任じられた。
  • 傅介子は霍光に、楼蘭と亀茲は反覆を重ねるのに誅さないから懲りない、特に楼蘭王は近づきやすいので刺殺して諸国に威を示したいと願い出た。
  • 霍光は、亀茲は遠いのでまず楼蘭で試せとして、派遣を奏請した。
  • 傅介子は士卒とともに金幣を携え、諸外国への賜物を配る使者を装って楼蘭へ向かった。
  • 楼蘭王は介子を厚遇しなかったため、介子はわざと西へ向かうふりをし、国境で通訳に黄金・錦繍を見せて、王が受けに来ないなら西国へ持って行くと言わせた。
  • 王は財物を欲して来訪し、傅介子と共に飲んだ。酒が回ると、介子は天子からの密命を伝えると言って王を帳中へ連れ込み、二人の壮士に背後から刺させてその場で殺した。
  • 傅介子は群臣に、王は漢に背いた罪で誅されたのであり、漢にいる弟の尉屠耆を新王に立てる、漢兵も近く来るから軽挙するなと告げた。
  • そして王の首を斬って駅伝で長安へ送り、北闕の下に懸けた。
  • 尉屠耆を王に立て、国名を鄯善と改め、印章を刻んで与え、宮女を夫人とし、車騎や輜重も備えて送り返した。
  • 丞相以下百官が横門の外で祖道して見送った。
  • 鄯善王は、前王の子が国内にいて自分は漢に長く滞在していたため、帰国後の安全が不安だとして、伊循城に漢の将一人を置いて屯田し、威勢を示してほしいと願った。
  • そこで漢は司馬一人と吏士四十人を伊循に置いて屯田させ、鎮撫にあたらせた。

秋:封侯

  • 七月乙巳、范明友は平陵侯、傅介子は義陽侯に封じられた。

司馬光の史論にあたる評価の趣旨

  • 楼蘭王はすでに罪を認めて服していたのに、その後なお使者が黄金で誘い出して殺したのは、王者の正道から外れると評される。
  • もし討つなら堂々と軍を陳して罪を明らかにすべきで、盗賊のような計略を蛮夷相手に用いたのは恥ずべきことだ、という批判的評価が示されている。