資治通鑑漢紀十四 世宗孝武皇帝 征和 元年 前92年

春正月・三月:帰還と趙王の後継

  • 武帝は建章宮へ帰還した。
  • 三月、趙敬粛王彭祖が死去した。
  • 彭祖には淖姬との子である「淖子」がいたが、武帝はその兄である宦者に人物を問うて「欲が多く、国を治め民を養うには向かない」と判断した。
  • 武始侯昌について問うと「可もなく不可もない」との答えだったため、かえって安定した人物と見て、使者を送って昌を趙王に立てた。

夏:建章宮での不審者

  • 大旱があった。
  • 武帝は建章宮で、剣を帯びた男が中の龍華門に入り込むのを見て異変と疑い、捕らえさせた。
  • 男は剣を捨てて逃げ、ついに捕まらなかったため、武帝は怒って門候を斬った。

冬十一月:長安での大捜索

  • 三輔の騎士を発して上林で大捜索を行い、長安の城門を閉ざして捜索した。
  • 十一月になってようやく解除された。

巫蠱事件の発端

  • このころ巫蠱事件が起こり始めた。
  • 丞相公孫賀の夫人君孺は衛皇后の姉で、公孫賀はその縁で寵を受けていた。
  • 子の公孫敬声は父のあとを継いで太僕となったが、驕慢で法を守らず、北軍の銭一千九百万を勝手に使い込み、発覚して下獄された。
  • ちょうど陽陵の大侠朱安世の逮捕が急務だったため、公孫賀は自ら朱安世を捕えて敬声の罪を贖いたいと願い出て許された。
  • その後、たしかに朱安世を捕えたが、朱安世は獄中から「丞相家には宗族に及ぶ禍が来る」と言い、公孫敬声が陽石公主と私通し、さらに甘泉行幸の際に馳道で偶人を埋め、呪詛の言葉を吐いたと上書して告発した。