資治通鑑漢紀十二 世宗孝武皇帝 元封 元年 前111年

冬十月 巡辺の詔

  • 武帝は「南越・東甌はすでに服したが、西方・北方の蛮夷はなお十分には安んじていない」として、自ら辺境を巡り、十二部将軍を置いて軍を率いる詔を出した。
  • 雲陽を出て、上郡・西河・五原を経、長城の北に出て単于台に登り、朔方へ至って北河に臨み、十八万騎を整列させて軍威を示した。

匈奴への示威

  • 匈奴には使者郭吉を送り、「南越王の首はすでに漢の北闕に掛けられている。戦うなら天子みずから辺で待つ。戦えぬなら南面して臣となれ。幕北の寒く水草の乏しい地に逃げ続けても益はない」と告げさせた。
  • 単于は激怒して郭吉を引見した責任者を斬り、郭吉自身は北海へ移した。
  • とはいえ匈奴も衝撃を受け、結局出兵してくることはなかった。

黄帝陵参拝と卜式の左遷

  • 帰途、武帝は橋山の黄帝陵を祭った。
  • 「黄帝は不死なのに、なぜ墓があるのか」と問うと、公孫卿は、昇天後に臣下が衣冠を葬ったのだと答えた。
  • 武帝は、自分も後に昇天したら東陵に衣冠だけ葬られるだろうかと感慨を漏らした。
  • 甘泉に戻って泰一へ類祭を行ったのち、文章に疎い卜式を太子太傅へ左遷し、児寛を御史大夫に起用した。

東越平定

  • 漢軍が東越の地へ入ると、東越側は険阻を固めて待ち構えた。
  • しかし、かつて越衍侯であった呉陽が七百人を率いて反旗を翻し、漢陽で東越軍を攻撃した。
  • また東越の建成侯敖と繇王居股が余善を殺し、その兵を率いて降伏した。
  • 武帝は轅終古を御児侯、呉陽を卯石侯、居股を東成侯、敖を開陵侯に封じ、さらに横海将軍韓説を案道侯、横海校尉福を繚嫈侯、降将多軍を無錫侯とした。

東越住民の強制移住

  • 武帝は閩地が険阻で反覆しやすく、後世の患いになると考え、諸将に命じてその民をことごとく江淮の間へ移住させ、故地をほぼ空白にした。

春正月 中岳祭祀

  • 武帝は緱氏へ行幸し、中岳太室を礼祭した。
  • 随行者は山下で三度「万歳」と聞こえる声を耳にしたという。
  • 武帝は祠官に命じて太室祠を増築し、草木の伐採を禁じ、山下三百戸を奉邑として付けた。

東巡海上と求仙熱

  • その後、海辺を東巡し、八神を祭った。
  • 斉人の上書で神怪・奇方を説く者は万単位にのぼり、武帝は海中神山を唱える者のためにさらに船を増発し、数千人を蓬莱の神仙探索に向かわせた。
  • 公孫卿は節を持って先行し、東萊で夜に数丈の大人を見た、大きな足跡が残っていた、老父が犬を引いて「鉅公に会いたい」と言って消えた、などの話が相次いだ。
  • 武帝は最初は疑ったが、こうした報告を重ねるうち仙人の存在を強く信じ、海上に長く滞在した。
  • 方士たちには伝車や間使も与え、神仙探索に動員された者は千人単位に達した。

夏四月 泰山封禅

  • 武帝は奉高に至り、まず梁父で地主を祭った。
  • 乙卯、侍中や儒者たちに皮弁・搢紳の礼装をさせ、自ら牛を射て封禅の祭事を行わせた。
  • 泰山南麓東方で、泰一郊祀に準じる礼によって封を行い、方二尺・高九尺の封土の下に玉牒書を納めた。
  • 儀式終了後、武帝は侍中と奉車都尉霍子侯だけを伴って泰山に登り、さらに秘密の封事を行った。
  • 翌日、北側の陰道を下り、丙辰に泰山東北の粛然山で禅を行った。后土祭と同様の礼で、武帝はすべて親拝した。
  • 祭服は黄色を尊び、楽も全面的に用いられた。江淮産の三脊の茅が神座の敷物に使われ、五色の土も封に混ぜられた。
  • 夜には光があり、昼には白雲が封中から立つとされた。

元封改元と恩赦

  • 封禅から還って明堂に座した武帝は、群臣の賀を受けた。
  • 自らは徳が薄く礼楽にも暗いが、天地の瑞応に感じて封禅に踏み切ったとして、ここから士大夫とともに新たに始めたいと詔した。
  • 十月をもって元封元年の始めとし、巡行先の博・奉高・蛇丘・歴城・梁父などでは田租や滞納賦役を免除し、今年の算を出させず、天下の民に爵一級を加えた。
  • さらに今後は五年ごとに泰山へ巡狩し、諸侯には泰山下に邸を造営させることとした。

海上再巡幸と霍子侯の死

  • 封泰山後、風雨がなかったことから、方士は蓬莱諸神も得られるだろうとさらに武帝を煽った。
  • 武帝は再び海辺へ赴き、自ら海を渡って蓬莱を求めようとしたが、東方朔が「仙は道があれば自然に至るもので、躁って求めても無益」と諫めたため思いとどまった。
  • その折、奉車の霍子侯が急病で一日で死に、武帝は深く悲しんだ。霍子侯は霍去病の子であった。
  • 武帝は海岸沿いに北上して碣石まで行き、遼西から北辺を巡って九原に至り、五月に甘泉へ戻った。総行程は一万八千里に及んだ。

桑弘羊の平準法

  • 先に桑弘羊は治粟都尉として大農を兼ね、天下の塩鉄と流通を掌握していた。
  • 平準法により、遠方の産物を官が運ばせ、京師で受けて相場に応じて売買し、富商大賈に独占利潤を与えないようにした。
  • このころ武帝の巡狩や賞賜に使う帛・銭・金はすべて大農から支出されたが、桑弘羊はさらに入粟補官・贖罪も進め、山東からの漕粟は毎年六百万石に増えた。
  • 太倉と甘泉倉は満ち、辺境にも穀物が余り、均輸の帛も五百万匹に達した。
  • 民に新たな課税を増やさずに国家支出が潤沢となったため、桑弘羊は左庶長の爵位と黄金二百斤を賜った。

秋 小旱と卜式の直言

  • 軽い旱魃があり、武帝は官に雨乞いを命じた。
  • 卜式は「国家は本来、租税で食し衣税で衣るべきで、市場で商売して利を争うべきではない。桑弘羊を煮殺せば雨が降る」とまで言った。
  • 武帝はこれを聞いてますます卜式を嫌った。

天象

  • 秋、東井に彗星が現れ、十余日後には三台にも彗星が現れた。
  • 望気の王朔は、鎮星が瓜ほどの大きさで現れてしばらくしてまた没したと述べた。
  • 有司は、これは封禅を行った漢家に天が徳星で報いたものだと奏上した。

斉王閎の死

  • 斉の懐王劉閎が死去し、子がなかったため国は除かれた。