資治通鑑漢紀十一 世宗孝武皇帝 元朔 六年 前123年

淮南王と衡山王の結託

  • 淮南王安は、衡山王賜と以前は仲が悪かったが、互いに反乱の意図を抱くようになり、しだいに連携するようになった。
  • 衡山王は、淮南王に併呑されるのを恐れて自らも賓客を集め、淮南以西から兵を挙げて江淮を押さえる構想を抱いた。
  • 衡山王后徐来は太子爽を讒言し、王は太子を幽閉して弟の孝に王印を持たせ、賓客招致を任せた。客人たちは淮南・衡山の叛意を薄々知りながら、日夜それを勧めた。
  • 孝の客である枚赫や陳喜は、兵車や矢を作り、天子・将相・軍吏の印まで刻み、反乱の準備を進めた。
  • 秋、衡山王が入朝の途中で淮南に立ち寄ると、兄弟は旧怨を解いて反乱計画を申し合わせたが、衡山王は病を理由に朝見せず、武帝もこれを容認した。

春:衛青の定襄出撃

  • 春二月、衛青は定襄から匈奴を攻め、公孫敖・公孫賀・趙信・蘇建・李広・李沮ら六将を従えた。
  • まず数千級を斬って帰還し、定襄・雲中・雁門で兵馬を休め、天下に恩赦が下された。
  • 夏四月、衛青は再び六将軍を率いて定襄から出撃し、さらに一万余を斬虜した。

趙信の投降、蘇建の処遇

  • 右将軍蘇建と前将軍趙信の軍三千余騎は、単于本隊に遭遇して一日余り戦ったが、漢兵は尽きかけた。
  • 趙信はもと匈奴の小王で、漢に降って翕侯となっていたが、この敗戦で八百騎ほどを率いて再び匈奴へ降った。
  • 蘇建は軍を失い、単身で衛青のもとへ戻った。議郎周覇は、裨将を斬って威を示すべきだと主張したが、軍正閎や長史安は、少数で大軍に当たり一日戦い通した将を斬れば、今後誰も帰参しなくなると反対した。
  • 衛青は、自分ほどの恩寵ある者が辺境で将を専断処刑するのは臣下の分を越えるとして、蘇建を拘束して行在所へ送った。武帝は処刑せず、贖罪して庶人とした。

霍去病の初陣

  • この遠征で、衛青の姉衛少児と霍仲孺の子である霍去病が、十八歳で侍中となり、票姚校尉として従軍した。
  • 霍去病は軽勇の騎八百を率い、本隊を離れて数百里先へ進み、首虜二千余級を挙げ、単于の近親や相国・当戸らを捕えた。
  • 武帝は、その功が諸軍に冠たるものだとして、霍去病を冠軍侯に封じた。上谷太守郝賢も功により衆利侯に封じられた。

衛青の賞罰と匈奴の対応

  • この年は、二将軍を失い、趙信軍も失われたため、衛青自身の功は大きくても増封はなく、千金を賜るにとどまった。
  • 趙信を得た単于は彼を次王として重く用い、姉を妻に与えた。
  • 趙信は、漢軍を深く漠北へ誘い込んで疲れさせ、極限に達したところを撃つ策を単于に授け、単于もこれを採用した。
  • このころ漢は毎年十余万を動員して匈奴を攻めていたが、兵士馬匹の損耗も甚大で、大司農の財政は疲弊した。

六月:武功爵の売爵

  • 戦費不足により、六月、民が爵位を買い、また禁錮刑や贓罪の贖いを金で行うことが許された。新設の爵位は武功爵と称され、大量の金銭収入を狙った。
  • 武功爵を高位まで買った者は、先に官に任じられる特典を得た。
  • これにより吏の任用は乱れ、官職秩序も摩耗した。