資治通鑑漢紀 世宗孝武皇帝 元朔 三年 前126年
冬 匈奴で単于交代
- 匈奴の軍臣単于が死に、その弟の左谷蠡王・伊稚斜が自立して単于となった。
- 彼は軍臣単于の太子・於単を破り、於単は漢へ亡命した。
公孫弘、御史大夫となる
- 公孫弘が御史大夫に任じられた。
- この頃、朝廷は西南夷を通じ、東に蒼海郡を置き、北に朔方郡を築いていた。公孫弘はたびたび諫め、中国を疲弊させて無用の地を養うものだとして、中止を願った。
- 武帝は朱買臣らに朔方設置の利を十策にまとめて反論させ、公孫弘は一つも十分に答えられなかった。
- 公孫弘は、自分は山東の鄙人で、その利を理解していなかったと謝り、西南夷と蒼海郡だけでも廃して朔方に専念してほしいと願った。武帝はこれを許し、春に蒼海郡を廃した。
公孫弘の質素と汲黯
- 公孫弘は布団を粗末な布にし、食事でも重ねて肉を食わなかった。
- 汲黯は「三公の位にあって俸禄も多いのに布被とは、これは偽りだ」と批判した。
- 武帝がただすと、公孫弘はそれを認めたうえで、「九卿のうち臣と最も親しいのは汲黯であり、今日の廷中の責めはまさに臣の病を突いたものだ。三公でありながら小吏と変わらぬ布被を用いるのは、名を釣ろうとする飾りにほかならない。だが、もし汲黯のような忠臣がいなければ、陛下はこの言葉を聞けなかったでしょう」と答えた。
- 武帝はこれを謙譲と受け取り、いっそう彼を尊んだ。
三月赦と於単の封侯
- 三月、天下に大赦があった。
- 夏四月丙子、匈奴の太子於単を渉安侯に封じたが、数か月で死んだ。
張騫、西域から帰る
- 以前、匈奴から降った者が、月氏はもと敦煌・祁連の間に住む強国で、匈奴の冒頓に破られ、老上単于には王の頭骨を飲器にされたと語っていた。残党は西へ逃れ、匈奴を深く怨んでいるという。
- 武帝は、月氏に通じてともに匈奴を撃つ使者を募り、漢中の張騫が郎としてこれに応じた。
- 張騫は隴西を出て匈奴中を通ろうとして捕えられ、十余年留め置かれた。隙を得て脱出すると、西へ数十日進んで大宛に着いた。大宛は漢の富を聞きながら通交の道がないことを惜しんでいたので、張騫を喜んで迎え、案内人と通訳をつけて康居を経て大月氏へ送った。
- 大月氏はすでに大夏を撃ってその地に住み、土地は肥え、外敵も少なく、もはや匈奴へ復讐する気を失っていた。張騫は一年余り留まったが、共同出兵の約を得られなかった。
- 帰路は南山沿いに羌地を通って帰ろうとしたが、再び匈奴に捕えられた。さらに一年余り経ち、伊稚斜が於単を逐って匈奴国内が乱れると、張騫は堂邑氏の奴・甘父とともに逃げ帰った。
- 武帝は張騫を太中大夫、甘父を奉使君とした。出発時百余人いた一行のうち、生還したのはこの二人だけだった。
匈奴の侵入と王太后の死
- 匈奴数万騎が塞に入り、代郡太守の恭を殺し、千余人を掠めた。
- 六月庚午、皇太后が崩じた。武帝の母、王太后である。
秋 西南整理と張湯の廷尉就任
- 秋、西夷経営は縮小され、南夷・夜郎の二県と一都尉だけを残し、犍為郡は自力で守備・整備を進めさせる程度にし、朝廷は朔方築城へ力を集中した。
- 匈奴は再び雁門に入り、千余人を殺掠した。
- この年、中大夫張湯が廷尉となった。彼は人を御するのに狡知を用い、武帝が文学を好むのに合わせて董仲舒や公孫弘を慕う姿勢を見せた。また千乗の児寛を奏讞掾に起用し、古法の義により疑獄を決する体裁を整えた。
- しかし実際には、皇帝が重く罰したい案件には廷尉監や獄史のうち苛酷な者をあて、軽く済ませたい案件には平恕な者をあてるなど、上意に沿う裁判を進めたため、武帝はこれを喜んだ。
- 張湯は旧知やその子弟にも何かと便宜をはかり、諸公のもとへは寒暑を問わず足を運んだので、法文は苛酷でも情けを知るような評判を得た。
- 汲黯はしばしば上前で張湯を責め、「正卿たるもの、先帝の功業を称え、天下の邪を抑え、人民を富ませて囹圄を空にすべきなのに、なぜ高祖の約法をかき乱して改めるのか。子孫が絶えるぞ」とまで罵った。
- 議論では張湯は法文の細部で勝ることが多かったが、汲黯は気節高く屈せず、「刀筆吏は公卿にすべきでないと言われるが、その通りだ。天下の人々が足をすぼめて立ち、横目で見るようになるだろう」と言い放った。