春二月・三月 匈奴侵入と臨江王の死
- 二月、匈奴が燕に侵入した。
- 三月、臨江王劉栄は太宗廟の外縁の垣を侵して宮殿を作った罪で、中尉府に召し出されて取り調べを受けた。
- 劉栄は刀筆を借りて上表し謝罪したいと望んだが、中尉の郅都は役人に命じて筆を与えさせなかった。魏其侯竇嬰がひそかに手配して渡したものの、劉栄は結局自殺した。
- 竇太后はこれを深く怒り、のちに厳格な法の運用を口実として郅都を罪に陥れ、殺させた。
夏四月 天変と封王
- 西北に彗星が現れた。
- 皇子の越を広川王、寄を膠東王に立てた。
秋九月 日食
梁孝王の嗣立工作
- 梁孝王は至親であり、七国の乱でも功があったため、天子の旌旗を用い、千乗万騎に囲まれて出入りするなど、特別の待遇を受けていた。
- 梁王が信任した羊勝・公孫詭は奇策に長け、梁王を漢の後継に立てようと画策した。栗太子が廃されたあと、竇太后もたびたび景帝に梁王を嗣子にせよと勧め、景帝もその場では承諾した。
- しかし景帝が大臣に諮ると、袁盎らは、宋宣公が弟を立てたために五世に及ぶ禍乱を生んだ故事を引き、嫡統を乱してはならないと反対した。これで太后の構想は挫折した。
- 梁王はさらに、長楽宮まで直通する甬道を造って太后に朝見しやすくしたいと願い出たが、これも袁盎らに止められたため、彼らを憎んだ。
梁王による議臣暗殺事件
- 梁王は羊勝・公孫詭と密謀し、袁盎ら皇嗣問題で反対した十余名の大臣を刺客に襲わせた。
- 天子はこれを梁の仕業と疑い、田叔・呂季主を派遣して梁の事件を調べさせた。公孫詭・羊勝は梁王の後宮に匿われ、使者たちは梁の二千石を強く責め、国内を大捜索した。
- 韓安国は二人が王のもとにいると知り、泣いて諫めた。臨江王ですら一言の過ちと宮垣の件で死んだのだから、諸侯である梁王が邪臣の説に乗れば、太后が亡くなった後には誰に頼れるのかと説いた。梁王は涙を流して受け入れ、羊勝・公孫詭を自殺させて引き渡した。
鄒陽・田叔の働きと梁王の赦免
- 梁王はなお恐れ、鄒陽を長安へ遣わして皇后の兄王信に取り入り、梁王を最後まで罪に問わぬよう天子に口添えすることが、王信自身の将来にも利益になると説かせた。
- 一方、太后は梁王の件で食事ものどを通らず泣き続け、景帝も苦しんだ。そこへ梁の獄辞を携えた田叔らが帰還したが、田叔は覇昌の厩で証拠書類を焼き払い、空手で景帝に会った。
- 田叔は、梁王を法で裁けば太后が耐えられず、裁かなければ漢法が立たない、この板挟みこそ陛下の憂いだと述べ、梁王は事を知らず、羊勝・公孫詭だけが首謀者だと太后に伝えるべきだと勧めた。
- 景帝はこれを善しとし、太后にそのように奏上させた。太后はようやく食事を取り、梁王も無事と知らされて落ち着いた。
梁王の入朝と帝の疎遠
- 梁王が上書して朝見を求めると、関中へ向かう途中で茅蘭が、粗末な車で少人数だけ連れて密かに長公主の園に隠れるよう勧めた。
- 漢の使者が迎えに出ても梁王の所在がわからず、太后は「帝はついに私の子を殺した」と泣いた。
- やがて梁王は宮門で斧鉞の前に伏して謝罪し、太后も景帝も大いに喜び、互いに泣きあった。梁王の従者も皆入関を許された。
- とはいえ景帝は以前より梁王を疎んじ、同じ車や輦に乗せることはなくなった。
- 景帝は田叔を賢いとして魯相に任じた。