資治通鑑漢紀 太宗孝文皇帝 前元 十三年 前167年

春二月―親耕・皇后親蚕の制度化

  • 文帝は、自ら農耕して祭祀用の穀物を供え、皇后が自ら蚕を飼って祭服を用意するため、必要な礼儀を整えるよう命じた。「粢」は稷、「盛」は祭器に盛った供物をいう。

夏―秘祝の廃止

  • 秦以来、災異が起こると皇帝の過失を臣下へ転嫁する秘祝という官があった。
  • 文帝は、災いは怨恨から、福は徳から生じ、百官の過失も皇帝自身に責任があるとして、自己の不徳を覆い隠す秘祝を廃止した。

淳于意事件と肉刑廃止

  • 斉の太倉令淳于意が罪を得て刑に処されることとなり、長安へ護送された。太倉令は斉王国の官で、淳于氏は姜姓の州公の後裔とされる。
  • 末娘の緹縈は、父が斉で清廉公平と評されてきたこと、死者は生き返らず、身体を切断された者は元に戻れず、改過自新の道がないことを訴えた。そして自ら官婢となって父の刑を贖うことを願った。
  • 文帝はその志に心を動かされ、教化する前に刑罰を加え、身体を切断・刻傷して生涯回復不能にするのは、民の父母たる君主の道ではないとして肉刑廃止を命じた。逃亡せず一定年数服役した者を身分回復させる規定も作らせた。
  • 丞相張蒼と御史大夫馮敬は、髠刑を城旦舂、黥・髠刑を鉄の首枷を付けた城旦舂、劓刑を笞三百、左足切断を笞五百へ変更するよう奏請した。右足切断に相当する者、殺人後に自首した者、賄賂で法を曲げた官吏、官有財物を管理しながら盗んだ者で、さらに笞刑に当たる罪を犯した者は棄市とした。文帝は裁可した。
  • 城旦舂には服役年数を定め、三年後に鬼薪・白粲、一年後に隷臣妾、さらに一定期間後に庶人へ戻す段階的な制度が設けられた。

寛厚な政治と刑罰の減少

  • 文帝は静かな無為の政治を行い、将相も古い功臣で、文飾より質実を重んじた。秦の苛政を戒め、議論では寛厚を尊び、人の過失をあげつらうことを恥じた。
  • 告発し合う風俗が改まり、官吏は職に安んじ、民は生業を楽しみ、蓄積と人口が増えた。法網は緩やかで、疑わしい罪は民に有利に裁かれたため、天下の重罪判決は年間四百件ほどとなり、刑具をほとんど用いない古代の理想に近づいた。

六月―田租の全面廃止

  • 文帝は、農業が天下の根本であるのに農民と商人がともに租税を負担するのでは本末の区別が不十分だとして、田租を廃止した。