冬十二月―彗星と男子の登録年齢
- 西南に彗星が現れた。
- 天下の男子を二十歳から戸籍上の成年として兵役・徭役に登録させた。旧制では二十三歳で傅籍しており、この変更は例外的な制度だった。
春三月甲寅―六皇子の封王
- 皇子劉徳を河間王、劉閼を臨江王、劉余を淮陽王、劉非を汝南王、劉彭祖を広川王、劉発を長沙王に立てた。
- 河間王は楽成、臨江王は江陵、淮陽王は陳、汝南王は平輿、広川王は信都、長沙王は長沙を都とした。劉閼の「閼」は「アツ」に近い。
夏四月壬午―太皇太后薄氏の死
六月―申屠嘉の死と鼂錯の台頭
- 丞相申屠嘉が死去した。
- 当時、内史鼂錯はたびたび景帝へ内密な奏言を行い、その意見は常に採用され、九卿を圧倒するほど寵愛されていた。法令の多くも鼂錯によって改定され、丞相申屠嘉の意見は退けられていたため、申屠嘉は鼂錯を憎んだ。
- 内史府の東門が不便だったため、鼂錯は南へ出る門を新たに開いたが、そこは太上皇廟の外周余地を囲う堧垣に当たった。
- 申屠嘉は、鼂錯が宗廟の垣を破ったとして誅殺を奏請しようとした。これを知った者が鼂錯へ伝えたため、鼂錯は夜中に宮中へ入り、上謁して自首した。
- 翌朝、申屠嘉が鼂錯の処刑を求めると、景帝は、破ったのは廟本体の垣ではなく外側の堧垣で、散官の宿舎もある場所であり、自分が命じた工事なので罪はないと答えた。
- 申屠嘉は退出後、先に鼂錯を斬ってから奏請すべきだったのに、先に奏請して反撃されたと後悔し、官舎で吐血して死んだ。鼂錯はこれによってさらに重用された。
秋―匈奴との和親
八月―陶青・鼂錯の昇進
- 丁未、御史大夫で開封侯の陶青を丞相とした。
- 丁巳、内史鼂錯を御史大夫とした。陶氏は陶唐氏の後裔とされる。
天文・気象の異変
- 彗星が東北に現れた。
- 秋、衡山で雹が降り、大きいものは五寸、積雪ならぬ積雹は二尺に達した。雹は雨水中の陽気と陰気が互いに混じらず固まったもの、雪は陰気によって凝滞したもの、霰は陽気に触れて砕け散ったものと説明される。
- 熒惑が逆行して北辰に留まり、月が北辰の間を通過し、歳星も天廷の中を逆行した。北辰は中宮の天極星、熒惑は火星、歳星は木星である。
- 月には黄道のほか、季節に応じて黒道・青道・赤道・白道があるとされるが、通常は北辰の間へ入らないため、この現象は軌道を失った異変とされた。
- 太微を天廷とし、北極・太微はいずれも君主の位に対応するため、惑星が留まり、通過し、逆行するのは重大な変異と解された。別説では、龍座の左角を天田、右角を天廷とする。
梁孝王の繁栄
- 梁孝王劉武は竇太后の末子として寵愛され、四十余城と天下屈指の肥沃地を領した。賞賜は数え切れず、府庫には百巨万近い金銭があり、珠玉・宝器は長安より多かった。巨万は一万の一万倍をいう。
- 方三百余里の東苑を築き、睢陽城を七十里に拡張し、大規模な宮室を造営した。宮殿から平台まで三十余里にわたる複道で結んだ。平台は梁都の東北にあった離宮で、後世にも睢陽城東二十里付近に広い台址が残ったという。
- 呉人枚乗・厳忌、斉人羊勝・公孫詭・鄒陽、蜀人司馬相如など、各地の豪俊を招いて遊ばせた。厳忌は本来荘氏だが、後漢明帝の諱を避けて厳と改められた。羊氏は羊舌氏の後裔、鄒氏は国名に由来する。
- 梁王が入朝するたび、景帝は節を持つ使者に乗輿用の四頭立て馬車を与えて関門まで迎えさせた。梁王は宮中では景帝と同じ輦に乗り、外出時には同車して上林苑で狩猟するほど寵愛された。
- 梁王は上疏して長安滞在を願い、半年近く留まった。梁国の侍中・郎・謁者は宮門出入りの名簿に登録され、漢の宦官と同様に天子の殿門を自由に出入りした。