資治通鑑漢紀六 太宗孝文皇帝 前 四年 前176年
丞相の交代
- 冬十二月、潁陰懿侯灌嬰が薨去した。
- 春正月、御史大夫の張蒼を丞相に任じた。張蒼は学識広く、とくに律令と暦法に通じていた。
季布、召されて退けられ不満を述べる
- 文帝は河東守の季布を召して御史大夫にしようとしたが、酒癖が悪く近侍の大臣には向かないとの意見が出たため、召し出したまま任用しなかった。
- 季布は、ある者の推薦で召し、別の者の悪評で退けるなら、天下は陛下の見識の浅深をうかがうだろうと率直に述べた。
- 文帝は黙して恥じ入り、河東は股肱の郡だから特に召したのだと弁明した。
賈誼、疎んじられて長沙へ
- 文帝は賈誼を公卿に取り立てようと考えたが、大臣たちは「若くして学問を始めたばかりで、専権して朝政を乱す」と非難した。
- そのため文帝も次第に賈誼を遠ざけ、彼の建議を用いず、長沙王太傅として外に出した。
周勃、謀反の疑いで逮捕
- 周勃は封国へ帰ってから、河東の守・尉が巡察に来るたび、誅殺されるのではと恐れ、甲冑を着て家人に武器を持たせて対面した。
- これを口実に、周勃が反乱を企てていると告発する者が現れ、廷尉に下して逮捕・取調べが行われた。
- 周勃は獄辞に不慣れで、獄吏から侮辱され、千金を贈ってようやく公主を証人に立てよとの示唆を得た。周勃の太子勝之が帝女を妻としていたためである。
- 薄太后は、呂氏誅滅の際に璽を掌握し北軍を率いていた周勃が、その時に反しなかったのに、今さら一小県で反乱するはずがないと怒って文帝を諫めた。
- 文帝は獄辞を見て反省し、使者に節を持たせて赦免し、爵位と封邑を復した。
- 釈放後、周勃は「百万の軍を率いたことはあっても、獄吏の威勢がこれほどとは知らなかった」と嘆いた。
顧成廟の建立