資治通鑑漢紀六 太宗孝文皇帝 前  六年 前174年

冬十月の異変

  • 冬十月、桃と李が季節外れに開花した。

淮南王長の専横

  • 淮南王劉長は国中で独自の法令を施行し、漢朝が置いた官吏を追放し、自分で相や二千石級の官を任命したいと求めた。文帝はこれに迎合して認めてしまった。
  • さらに劉長は、罪なき者まで勝手に刑殺し、爵位も関内侯にまで及んで授け、しばしば朝廷へ無礼な上書を送った。
  • 文帝は薄昭に書を持たせ、管叔・蔡叔や代頃王・済北王興居の例を挙げて戒めさせたが、劉長は喜ばなかった。

淮南王長の謀反発覚

  • 劉長は大夫但・士伍開章ら七十人とともに、棘蒲侯柴武や太子奇と組んで、輦車四十乗で谷口から反乱を起こす計画を立てた。さらに閩越や匈奴とも通じようとした。
  • しかし計画は発覚し、有司が取り調べた。使者を立てて淮南王を召し、長安に来させた。

淮南王長の廃絶と死

  • 丞相張蒼、典客馮敬、宗正、廷尉らは、劉長の罪は棄市に当たると奏上した。
  • 文帝は死罪のみは赦し、王位を廃して蜀郡厳道の卭郵へ流すよう命じ、共謀者たちは皆誅殺した。
  • 劉長は輜車に載せられ、各県の伝舎で次々と護送された。袁盎は、これまで甘やかしておいて急に厳しく扱えば、道中で病死して弟を殺したと非難されるだろうと諫めた。
  • 文帝は一時苦しめて悔いさせるだけで、すぐ呼び戻すつもりだと言ったが、劉長は憤怒して飲食を絶ち、雍に至る途中で死んだ。雍令が封を開いてその死を報告した。
  • 文帝は深く悲しみ、袁盎に「どうすべきか」と問うた。袁盎は、丞相と御史を斬って天下に謝罪すべきだとまで言った。
  • 文帝は、護送中に封を開かなかったことや給養を怠ったことを理由に、関係官吏を逮捕して処刑した。
  • 劉長は列侯の礼で雍に葬られ、墓守三十戸が置かれた。

匈奴との往復書簡

  • 匈奴単于は漢に書を送り、以前の和親の約は双方の意向に合っていたのに、漢辺吏が右賢王を侵したことから破綻したと述べた。
  • そこで右賢王を西へやり、月氏を攻めさせたところ、天の助けで勝利し、月氏を撃滅して降し、さらに楼蘭・烏孫・呼揭など二十六国も匈奴に服属し、北方の弓を引く民は一つにまとまったと誇った。
  • そのうえで、兵を休め馬を養い、旧約を回復して辺民を安んじようとし、もし匈奴を塞の近くに置きたくないなら、漢の吏民を遠ざけよと要求した。
  • 文帝は返書で、旧約復活の意向は嘉するが、兄弟の約を破るのは常に匈奴側だと指摘しつつ、右賢王の件は赦し以前のこととして深追いするなと述べ、誠実な遵守を求めた。

老上単于の即位と中行説

  • ほどなく冒頓単于が死に、子の稽粥が立って老上単于と号した。
  • 文帝は老上単于の即位後、改めて宗室の女を翁主として閼氏に送り、燕人の宦官・中行説をその傅役として同行させた。中行説は本心では行きたがらなかったが、漢が強制した。
  • 中行説は、もし自分が行けば必ず漢に災いをなす者になると言い、その言葉どおり匈奴に降って単于の寵を得た。
  • 彼は匈奴に対し、漢の絹や食物を好みすぎると風俗が変わって漢に取り込まれると説き、漢から得た衣食をわざと粗末に扱わせ、毛皮と乳製品の方が優れることを示させた。
  • また匈奴の人畜を記録し課役を計算する方法を教え、漢への国書や印封も大きく不遜な様式に改めさせ、自らを「天地所生・日月所置の大単于」と称させた。
  • 漢使が匈奴の風俗を笑うと、中行説は、中国こそ親族どうしで争って帝位すら移るではないかと反論し、匈奴は統治が簡明で宗種が保たれるから国家が続くのだと説いた。

賈誼の治安策

  • このころ、梁太傅となっていた賈誼が長大な上疏を上げ、天下には「痛哭すべきこと一つ、流涕すべきこと二つ、長太息すべきこと六つ」があると論じた。
  • 彼は、諸侯王が強大なままであれば、淮南・済北のような反乱は今後さらに深刻になるとして、諸侯を細分化し、子孫に分け与えて勢力を弱めることを提案した。
  • また、匈奴を上位に置くような和親の屈辱、奢侈の蔓延、秦以来の風俗悪化、礼義教育の不足、太子教育の重要性、大臣を辱める刑罰の弊害などを詳述し、礼義・等級・教化をもって国家を治めるべきだと説いた。
  • とくに、周勃が無実で獄に繋がれた一件を念頭に、大臣に廉恥を保たせる扱いをすべきだと強調した。
  • 文帝はその意見を深く容れ、この後は大臣に罪があっても自殺を許し、辱刑にかけることを避ける方向が強まった。