冬十月 諸呂を王に立てる議論
- 高皇后は呂氏一族を王に封じようとし、右丞相の王陵に意見を求めた。王陵は、高帝が「劉氏でなければ王にしない」と群臣に誓わせた先例を挙げ、呂氏を王にするのは盟約違反だと強く反対した。
- これに対し、左丞相の陳平と太尉の周勃は、今は太后が政務を執っており、呂氏を王にすることも不可能ではないと答えたため、太后は喜んだ。
- 王陵は朝議の後、陳平と周勃を責めて、高帝との誓いに背くのかと詰め寄った。これに対し陳平らは、廷上での正面からの諫争は王陵に及ばないが、劉氏の天下を守る策を立てることでは自分たちの方が務めを果たせると答えた。
十一月 王陵の失脚と新たな人事
- 十一月甲子、高皇后は王陵を帝太傅に移し、実際には丞相としての権限を奪った。王陵は病と称して辞し、帰郷した。
- 陳平は左丞相から右丞相に移され、辟陽侯の審食其が左丞相となった。ただし審食其は政務をほとんど執らず、宮中の監督を担当し、郎中令のような立場で太后の側近としてふるまった。
- 審食其は以前から太后の寵愛を受けていたため、公卿たちも彼を通じて政務を裁くようになった。
- 太后は、かつて趙隠王のために計画をめぐらせた趙堯を恨み、その罪を問うた。
- 上党守の任敖は、沛県の獄吏であった頃に太后へ恩を施したことがあり、その縁で御史大夫に抜擢された。
- また太后は、父の呂公を宣王、兄の周呂侯呂沢を悼武王と追尊し、呂氏を王にするための地ならしを進めた。
春正月 法令の緩和
- 三族を連座させる刑罰と、妖言を罪とする法を廃止した。これは秦以来の苛酷な法を軽くした措置である。
夏四月 魯元公主の死去と諸侯封建
- 魯元公主が死去した。子の張偃を魯王に封じ、公主には魯元太后の諡が贈られた。
- 同月辛卯、惠帝の子とされた山を襄城侯、朝を軹侯、武を壺関侯に封じた。
呂氏封王への布石
- 太后は呂氏を王にする準備として、惠帝の子とされた彊を淮陽王、不疑を恒山王に立てた。
- 大謁者の張釈に大臣たちへの根回しをさせ、その結果、悼武王呂沢の長子で酈侯の呂台が呂王に立てられた。あわせて斉から済南郡を割いて呂国とした。
五月・秋 災異
- 五月丙申、趙王宮の叢台が火災に遭った。
- 秋には桃や李が季節外れに開花した。