冬十月 燕王の設置
- 冬十月辛丑、呂台の子で東平侯の呂通を燕王に立て、その弟の呂荘を東平侯に封じた。
三月 高后の病の前兆
- 三月、太后は祓除の祭りから帰る途中、軹道で青黒い犬のようなものに脇をつかまれる怪異に遭った。やがて姿は消えたが、占わせると趙王如意の祟りだとされた。
- 太后はこれ以後病み、脇の傷も悪化した。
夏四月 張氏一族と張釈への封賞
- 外孫である魯王張偃は幼く孤立していたため、太后は張敖の以前の姫が産んだ二子の侈を新都侯、寿を楽昌侯に封じて補佐役とした。
- また、中大謁者張釈を建陵侯に封じた。呂氏封王を勧めた功に対する褒賞である。
- この年、江水・漢水が氾濫し、一万戸余りが被害を受けた。
秋七月 高后危篤と遺命
- 秋七月、太后は病が重くなり、趙王呂禄を上将軍として北軍に置き、呂王呂産を南軍に置いた。
- 太后は二人に対し、呂氏を王にしたことを大臣たちは快く思っていない、自分が死ねば皇帝は幼く変乱が起こるおそれがあるので、必ず軍を握って宮中を守り、葬儀のために軍を離れて人に制されるなと戒めた。
- 辛巳、太后が崩じた。遺詔により天下に大赦が行われ、呂産は相国となり、呂禄の娘を皇后に立てることが決まった。高后の葬後、審食其は帝太傅とされた。
諸呂誅滅への動き
- 呂氏は反乱を起こそうとしたが、周勃・灌嬰ら大臣を恐れて、すぐには動かなかった。
- 朱虚侯章は呂禄の娘を妻としていたため、その陰謀を知り、ひそかに兄の斉王へ知らせた。斉王に西へ兵を挙げさせ、自分と東牟侯興居が内応し、呂氏を討って斉王を帝に立てようとしたのである。
- 斉王は、舅の駟鈞、郎中令祝午、中尉魏勃と密議して挙兵を図ったが、斉相召平は応じなかった。
八月 斉の挙兵
- 八月丙午、斉王は相の召平を討とうとした。召平はこれを知って兵を起こし王宮を守った。
- 魏勃は、王が兵を出すには虎符が必要だと偽って召平を安心させ、自ら王を守ると称して兵権を握ると、逆に相府を包囲し、召平を自殺に追い込んだ。
- 斉王は駟鈞を相、魏勃を将軍、祝午を内史とし、国内の兵を総動員した。
- 祝午は琅邪王劉沢をだまして臨淄へ来させ、これを留め置いたうえで琅邪国の兵も併せて掌握した。
- 劉沢は、斉王こそ高帝の嫡長孫であり帝位にふさわしいと述べたが、自分は長年の宗室として大臣たちの決断に必要な人物だから、むしろ自分を関中へ行かせて議論に参加させるべきだと説いた。斉王はこれを認め、劉沢を長安へ向かわせた。
- その後、斉王は西へ進軍して済南を攻め、諸侯王たちにも呂氏討伐を呼びかけた。
灌嬰の静観
- 相国呂産らは、潁陰侯灌嬰を派遣して斉を討たせた。
- しかし灌嬰は滎陽に至ると、ここで斉を破って帰れば呂氏の力を増すだけだと判断し、軍を留めて斉王や諸侯と連絡を取り、呂氏に変があれば共同で討つ約束を結んだ。
- 斉王はこれを聞いて兵を西辺に留め、約束を待った。
九月 周勃・陳平の決断
- この時、長安には幼い済川王太・淮陽王武・常山王朝・魯王張偃らがまだ国に赴いておらず、趙王呂禄と梁王呂産が南北軍を握っていた。列侯・群臣は態度を定めかねていた。
- 周勃は兵権を握っておらず、老病の酈商を人質同然に抑えて、その子酈寄を使い、呂禄を説得させた。
- 酈寄は、劉氏の九王と呂氏の三王はいずれも大臣の議によるもので、太后が死んだ今、趙王の印を佩いて長安にとどまり上将軍となっているのは疑いを招くと説いた。そして将印を太尉へ渡し、呂産も相国印を返上して諸侯の国へ帰れば、斉兵は退き、万世の安が得られると勧めた。
- 呂禄はこれを信じたが、呂氏の長老たちの意見は分かれ、決断できなかった。
- 呂須は呂禄が狩猟に出た折に激怒し、軍を捨てれば呂氏の居場所はなくなると言って、財宝を床にまき散らし、他人のために守る必要はないと煽った。
九月庚申 北軍掌握
- 九月庚申の朝、平陽侯曹窋が呂産のもとで相談しているところへ、斉から来た郎中令賈寿が、灌嬰が斉・楚と結んで呂氏を討とうとしていると告げ、呂産に早く宮中へ入るよう促した。
- 曹窋はこの情報を急いで陳平と周勃に伝えた。
- 周勃は自力では北軍に入れなかったが、符節を扱う紀通に帝の命を装わせて節を持たせ、周勃を北軍へ入れた。
- 同時に酈寄と典客劉掲が呂禄を再び説き、急いで趙へ帰るよう迫った。呂禄はこれを信じて将印を解き、兵を太尉に引き渡した。
- 周勃が北軍に入ると、「呂氏につく者は右肌を、劉氏につく者は左肌を見せよ」と命じた。兵は皆左袒したため、北軍は周勃の支配下に入った。
- 陳平は朱虚侯章を周勃の補佐に呼び、周勃は章に軍門の監督を命じた。
- また、曹窋を通じて衛尉に命じ、呂産を殿門へ入れないようにした。
呂産・呂更始らの誅殺
- 呂産は呂禄がすでに北軍を失ったことを知らず、未央宮に入って変を起こそうとした。しかし殿門に入れず、あたりを行き来するばかりであった。
- 曹窋が危険を感じて周勃に知らせると、周勃はなお決断しかねたため、朱虚侯章に「急いで宮中へ入り、帝を守れ」と命じ、兵千余を与えた。
- 章は未央宮に突入し、廷中にいた呂産を襲撃した。折からの強風で呂産の従者たちは混乱し、抗戦できず、呂産は郎中令府の便所で殺された。
- 章はさらに長楽宮の衛尉呂更始も斬り、その報を周勃に伝えた。
- 周勃はこれで天下が定まったと判断し、ただちに呂氏の男女を捜索して、老幼を問わず皆殺しにした。
- 辛酉、呂禄を捕えて斬り、呂須は鞭打って殺した。人を遣わして燕王呂通も誅し、魯王張偃は廃された。
- 戊辰、済川王太を梁王へ移した。
斉王への通告と魏勃
- 朱虚侯章は、呂氏誅滅の成功を斉王に告げ、兵を解くよう命じられた。
- 灌嬰は滎陽で、魏勃が挙兵の黒幕だったと知り、彼を呼んで問いただした。魏勃は、火事の家を救うのに、まず主人へ知らせる暇があるかと答え、震えながらもそれ以上は語らなかった。灌嬰は彼をただの軽率な人物と見なし、軍を解いて帰還した。
皇帝擁立の議
- 大臣たちは、少帝弘や梁・淮陽・恒山の諸王は真の惠帝の子ではなく、呂后が他人の子を奪ってその母を殺し、後宮で育てたものだと判断した。呂氏を滅ぼした以上、そのまま成長させて政務を執らせれば自分たちに危険が及ぶと考えた。
- 斉王は高帝の長孫なので有力な候補だったが、その舅の駟鈞が粗暴で、また外戚の専横を招くおそれがあるとして退けられた。
- そこで、高帝の現存する子のうち最年長で、仁孝寛厚と評判の代王恒を立てることで意見が一致した。母の薄氏一族も慎み深いとされた。
- 代王に使者を送ると、代王は漢の大臣たちは高帝以来の宿将で兵事にも長け、真意が読みにくいと警戒した。だが中尉宋昌は、劉氏の天下はすでに三重に安定しており、呂氏誅滅も天命によるものであって、今さら大臣が勝手に天下を動かすことはできないと説いた。
- 卜すると「大横」という吉兆が出て、卜人は天王、すなわち天子になる徴と解した。
- 代王は薄昭を長安に送り、大臣たちの真意を探らせた。薄昭が間違いないと報じたため、代王は宋昌を参乗とし、張武ら六人を伴って長安へ向かった。
- 高陵でひとまず止まり、宋昌を先に渭橋へ走らせて情勢を見させた。丞相以下は皆これを出迎え、代王の到着を待った。
- 代王が渭橋に着くと群臣は臣下の礼を取った。周勃は人払いを願ったが、宋昌が、公のことなら公言すべきで私事などないと制した。周勃はひざまずいて天子の璽符を差し出したが、代王はひとまず代邸で協議しようと答えた。
- 後九月己酉晦、代王は長安の代邸に入り、陳平らの推戴を受けた。群臣は、弘らは惠帝の実子でなく宗廟を継げない、高帝の長子たる代王が嗣ぐべきだと述べた。
- 代王は西向きに三度、南向きに二度辞退したのち、ついに帝位に就いた。
少帝の退位と文帝即位
- 東牟侯興居は、自分には呂氏誅滅の功があるので、宮中整理の役を願い出て許された。汝陰侯滕公とともに宮中へ入り、少帝に対し、劉氏の子ではないから帝位にあるべきでないと告げた。
- 宮中の武装した者の武器を取り上げ、宦者令張釈も説得にあたって抵抗を収めさせた。
- 滕公は乗輿車で少帝を宮外へ運び出した。
- その後、少府は天子の法駕を整え、代王を迎えた。未央宮の端門では、戟を持つ謁者たちが立ちはだかったが、周勃が説得して退かせた。
- 代王はその夜に未央宮へ入り、宋昌を衛将軍として南北軍を鎮撫させ、張武を郎中令として殿中巡察に当たらせた。
- 有司は梁・淮陽・恒山の諸王と少帝をそれぞれ邸で誅した。
- 文帝は前殿に坐し、その夜のうちに大赦を命じた。