資治通鑑漢紀五 太宗孝文皇帝上 元年 前179年

冬十月 諸王の改封

  • 冬十月庚戌、琅邪王劉沢を燕王に移し、趙幽王友の子の劉遂を趙王に立てた。

丞相の交代

  • 陳平は病を理由に辞意を示し、高祖の時も諸呂誅滅の時も周勃の功が自分を上回るとして、右丞相の地位を譲りたいと願った。
  • 十一月辛巳、文帝は陳平を左丞相に移し、周勃を右丞相、大将軍灌嬰を太尉とした。
  • 呂氏が奪っていた斉・楚の故地は、もとの諸侯に返還された。
  • 諸呂誅滅の功によって、周勃以下に戸数の加増や黄金の下賜が行われた。

袁盎の諫言

  • 周勃は朝が終わると得意げに足早に退出した。文帝は彼を非常に丁重に扱い、退出する姿を目で追うほどであった。
  • これに対し、郎中の袁盎は、諸呂誅滅は本来丞相としての周勃に兵権があって成功しただけであり、今のように驕りの色を見せる大臣に対し、君主がへりくだりすぎるのは君臣の礼を失うと諫めた。
  • その後、文帝は朝廷での態度を引き締め、周勃もまた大いに畏れるようになった。

十二月 連座法の廃止

  • 文帝は詔して、罪人の父母・妻子・兄弟まで連座させる法や、罪人の妻子を没収する「収帑」の法を廃した。

春正月 太子建ての議論

  • 有司は早く太子を立てるよう請うたが、文帝は、自ら不徳であるのに子をあらかじめ立てるのは、その不徳を重ねるようなものだとして渋った。
  • 有司は、宗廟社稷と天下を重んじるためにも太子は必要であり、殷周が長く続いたのも世継ぎを定めたからだと主張した。
  • 文帝は、楚王は叔父、呉王は兄、淮南王は弟であり、必ずしも自分の子にこだわる必要はないと言ったが、有司はなお、高帝の遺志に照らしても嗣子を立てるべきだと固く請うた。
  • そこで最年長の子・劉啓を太子に立てることを許した。

三月 竇氏を皇后に

  • 三月、太子の母である竇氏を皇后に立てた。
  • 竇皇后は清河の観津の人で、弟の広国(字は少君)は幼少時に人さらいに売られて転々としていたが、皇后の立后後に上書して名乗り出た。召して調べると真実だったので、文帝は厚く褒賞し、兄の長君とともに長安に住まわせた。
  • 周勃や灌嬰らは、二人は身分が低い出自なので、師傅や賓客を選んで節義を学ばせなければ、呂氏のような外戚専権を再び招くと考えた。そのため節行ある士を近づけた。
  • その結果、竇長君・竇少君は謙譲を知る君子として育ち、尊貴に驕らなかった。

恩恵政策

  • 鰥寡孤独や貧窮者へ救済・貸与を行うよう命じた。
  • 八十歳以上には毎月、米・肉・酒を支給し、九十歳以上にはさらに帛や綿を与えることとした。配給は、粥にすべき米まで含めて支給し、地方官が自ら届け、下級役人も年齢に応じて届けるよう整えた。
  • 二千石の長官には督郵級の官を巡行させ、詔にかなわない者を監督させた。

春夏 楚元王の死と災異

  • 楚元王劉交が死去した。
  • 夏四月、斉・楚で地震があり、二十九の山が同日に崩れ、大水が噴き出した。

千里馬を退ける

  • 千里馬が献上されたが、文帝は、鸞旗が前に立ち、属車が後ろに続く天子の行幸は日ごとの進行も定まっており、自分だけが先に行くわけにはいかないとして、馬を返し、道中費用のみ与えた。
  • あわせて、今後は四方から献上品を求めてはならないと詔した。

宋昌の封侯

  • 文帝は代国時代からの功に報い、宋昌を壮武侯に封じた。

陳平と周勃への問い

  • 文帝は政務に熟達してくると、朝廷で周勃に対し、天下で一年に裁かれる獄訟の数を尋ねたが、周勃は答えられなかった。さらに銭穀の収入も尋ねたが、やはり答えられず、汗を流して恐縮した。
  • 次に陳平へ尋ねると、陳平は、それぞれ担当官がいると答えた。獄訟は廷尉、銭穀は治粟内史に問えばよいという。
  • 文帝が、それなら丞相は何を司るのかと問うと、陳平は、丞相は天子を助けて陰陽四時を調え、万物を適所に導き、外は四夷と諸侯を鎮撫し、内は百姓を親附させ、卿大夫がそれぞれの職を尽くせるようにするのが役目だと答えた。
  • 文帝はこれを称賛し、周勃は陳平に及ばぬことを思い知った。

周勃の退任

  • その後、周勃は、自分は諸呂を誅して代王を立てたため威勢が大きすぎ、このまま高位と厚賞にとどまれば禍が及ぶと人から忠告され、自身も危惧した。
  • そこで病を理由に相印を返上し、秋八月辛未、右丞相を免じられた。陳平が専ら丞相となった。

南越との和解

  • 隆慮侯周灶の南越征討軍は、暑さと湿気で疫病が流行し、嶺を越えられぬまま一年余を費やした。高后の死でそのまま兵は解かれた。
  • 趙佗はこの間に兵威と財物で閩越・西甌・駱越を服属させ、東西万余里を有し、黄屋左纛を用いて中国の皇帝と対等にふるまっていた。
  • 文帝は趙佗の真定にある祖先の墓を守る邑を置き、祭祀を続け、その兄弟にも高官・厚賞を与えて歓心を買った。
  • さらに陸賈を再び南越へ派遣し、書を与えた。そこでは、自分は高帝の側室の子であって代に封ぜられていたが、諸呂の乱後にやむなく帝位に立ったこと、趙佗が求めた兄弟への待遇改善や長沙の守備軍撤去に応じたこと、越の兵が長沙・南郡を苦しめたのは互いに利益にならないこと、帝号を並び称して使者も交わさないのは争いであり、仁者のすることではないことを述べ、過去の恨みを捨てて通交を回復しようと呼びかけた。
  • 陸賈が着くと、趙佗は恐れて謝罪し、国中に令して帝号・黄屋・左纛をやめたうえで、みずから「蛮夷の大長老夫臣佗」と称する上書を文帝に送った。
  • その書では、自分はもと越地の小吏であり、高帝により南越王となったこと、惠帝は恩義を絶たなかったが、高后が蛮夷を差別して金鉄・農具・家畜の供給を止め、雌の家畜は与えぬなどしたこと、使者を送って謝罪しても返答がなく、兄弟一族が誅されたと伝え聞いたことから、自衛のために帝号を称したと弁明した。
  • さらに、老境にありながら漢に仕えられぬことを日夜嘆いていた、今後は帝号を改めて二度と称さぬと誓った。

斉王襄の死と賈誼の登用

  • 斉哀王劉襄が死去した。
  • 文帝は、河南守の呉公の統治が天下第一と聞いて、これを廷尉に召した。呉公は洛陽の賈誼を推挙した。
  • 文帝は賈誼を博士に任じた。賈誼は二十余歳だったが、文辞に富み学識も広く、一年のうちに太中大夫にまで異例の昇進を遂げた。
  • 賈誼は、正朔や服色を改め、官名を定め、礼楽を興して、秦制を改めるべきだと上奏した。文帝は謙譲して、まだその余裕がないとして直ちには実行しなかった。