冬十月・十一月 陳平の死と周勃の復帰
- 冬十月、曲逆献侯陳平が死去した。
- 文帝は、列侯は原則としてみな自国へ帰るよう命じ、ただし官職に就いている者や特に詔で留めた者はその限りでないとした。
- 十一月乙亥、周勃を再び丞相に起用した。
- 癸卯晦、日食があった。
求言の詔
- 文帝は群臣に対し、自分の過失や見落としを率直に申し述べるよう求め、あわせて賢良方正で直言極諫できる者を推薦させた。これは賢良方正の推挙の始まりとされる。
- また、それぞれの官に職務を励ませ、徭役や費用を省いて民を楽にするよう命じた。
- 衛将軍を罷め、太僕の管理する馬も必要分だけ残し、余剰の費用は伝置駅の運営に回すようにした。
賈山の上書
- 潁陰侯灌嬰の騎従であった賈山が、治乱の道について上書した。
- その趣旨は、君主の威は雷霆や万鈞より重く、諫めを受け容れる姿勢がなければ、たとえ堯舜の智や孟賁の勇があっても誰も直言できない、というものであった。
- 周が多くの諸侯を養ってもなお民力に余裕があったのに、秦は天下の民力を一身の奢侈で使い果たし、宗廟を滅ぼしたのは、諫める者を退け、おもねる者ばかりを用いたからだと論じた。
- さらに、今や賢良方正の士を朝廷に集めたのに、これを日々の遊宴や狩猟に従わせれば、朝廷の綱紀が弛み、大業を傷つけ、天下の期待を絶つことになると戒めた。
- 文帝はその言を嘉納し、以後、郎官や従官が上書すると輦を止めてでも読み、取るべき意見は採用した。
袁盎の再諫
- 文帝が霸陵から帰る際、険しい坂を西へ駆け下りようとした。中郎将袁盎が車に並んで轡を取って止めた。
- 文帝が、将軍は臆病なのかと問うと、袁盎は、千金の子ですら堂の端に座らず、聖主は危険に乗じて幸運をあてにしない、もし馬が驚き車が転べば、陛下自身だけでなく高廟と太后に対しても申し訳が立たないと諫めた。文帝はこれを聞いて進行を止めた。
慎夫人の席次問題
- 文帝が寵愛する慎夫人は、禁中でしばしば皇后と同席していた。あるとき郎署で座席が設けられた際、袁盎は慎夫人の席を後ろへ下げた。
- 慎夫人は怒って座らず、文帝も怒って奥へ入った。
- 袁盎は進み出て、尊卑の序があってこそ上下が和するのであり、皇后が立っている以上、妾である慎夫人が同席するのは礼に反する、しかも陛下の寵愛の示し方はかえって慎夫人に禍を招く、人彘の前例を忘れてはならないと説いた。
- 文帝はこれを聞いて納得し、慎夫人にもその旨を語った。慎夫人もまた袁盎に黄金五十斤を贈った。
賈誼の農本論
- 賈誼は文帝に対し、民の衣食が足りてこそ礼節と栄辱を知るのであり、生産には時があるのに浪費には限度がないなら物力は尽きると述べた。
- 今は本業の農を捨てて末業に走る者が多く、奢侈の風も日々増しているので、これは天下を蝕む大害だとした。
- 生む者が少なく費やす者が多ければ、国家の財は必ず尽きる。漢は建国から四十年近いのに、公私の蓄えはいまだ乏しく、ひとたび凶年や辺境の急があれば、民は狼のように振り返り、富者は爵位を買い、貧者は子を売るようになると警告した。
- もし兵乱と凶作が重なれば、勇者は徒党を組み、老弱は子を交換して食うまでに至り、政治の基盤が崩れると論じた。
- したがって、蓄積こそ天下の命脈であり、人々を農へ帰らせ、本に著かせれば、富みて安んじる天下を実現できるのに、今は危うい状態のままだと惜しんだ。
- 文帝はこの言葉に深く感じ入った。
春正月 籍田
- 春正月丁亥、籍田を開いて、文帝みずから耕し、天下に農を勧めた。
三月 諸王の設置
- 有司は皇子たちを諸侯王に立てるよう請い、まず趙幽王の少子の劉辟彊を河間王に立てた。
- 朱虚侯章を城陽王、東牟侯興居を済北王とした。
- その後、皇子の武を代王、参を太原王、揖を梁王に立てた。
五月 諫言を受ける制度の整備
- 文帝は詔して、古には朝廷に進善の旌と誹謗の木があって、善言を進めさせ、政治の過ちを書かせたと述べた。
- ところが今は誹謗や妖言を罪とする法があって、臣下が本心を尽くせず、上も過失を知ることができない、として、これらの罪を除いた。
九月 農本奨励
- 九月、農こそ天下の大本であり、民が末業に流れて生計を損なうのを憂えるとして、今年は自ら群臣を率いて耕したことを踏まえ、天下の田租を半減した。
- この年、燕敬王劉沢が死去した。