冬十月 韓信の井陘攻略と趙の滅亡
- 韓信と張耳は数万の兵を率いて東進し、趙を攻めた。趙王歇と成安君陳餘は井陘口に大軍を集めて迎え撃った。
- 趙の広武君李左車は、韓信軍は勝勢に乗っているが遠征で補給が伸びており、井陘の険路では兵糧輸送が弱点になるとして、奇兵三万でその輜重を断ち、正面では堅守して疲弊を待つべきだと進言した。
- しかし陳餘は「義兵」を称して奇策を嫌い、正面決戦を選んだ。韓信はその情報を得て、ようやく勝機ありと見た。
- 韓信は夜半、軽騎二千に赤旗を持たせて山陰から趙の陣をうかがわせ、趙軍が追撃で営を空けたらその本営に入り漢旗を立てよと命じた。
- さらに本隊には背水の陣を敷かせたため、趙軍はこれを見て嘲笑した。韓信はわざと旗鼓を捨てて退くと、趙軍は本営を空けて追撃した。
- その間に伏せていた二千騎が趙営へ突入し、趙の旗を抜いて漢の赤旗に取り替えた。趙軍が戻ると自軍の営に漢旗が立っていたため大混乱に陥った。
- 韓信軍は背水のため死戦し、前後から趙軍を挟撃して大破した。陳餘は泜水で討たれ、趙王歇も捕らえられた。
- 将兵が「兵法では山を背にし水を前にするのが常道なのに、なぜ逆に背水で勝てたのか」と問うと、韓信は、普段から十分に恩信を施していない兵を戦わせるには死地に置くしかない、と説明した。
広武君の登用と燕・斉攻略の方針
- 韓信は李左車を生け捕りにした者へ千金を与えると命じ、捕縛されて来た李左車を厚遇して師として遇した。
- 韓信が「北に燕を討ち、東に斉を討つにはどうすべきか」と尋ねると、李左車は、今は連戦で兵が疲弊しており、燕の堅城を攻めても長期戦になって不利だと説いた。
- そのうえで、まず趙の民を慰撫して軍を休め、燕に使者を送り、韓信の威勢を示して降服を促すべきだと勧めた。兵はまず威勢を示し、その後に実力で制するものだというのである。
- 韓信はその策を採用し、使者を燕へ派遣した。燕は風に靡くように服属し、あわせて張耳を趙王に立てるよう漢王へ求め、漢王もこれを許した。
- この間、楚はたびたび奇兵で黄河を渡って趙を攻めたため、張耳と韓信は趙の諸城を平定しつつ往来し、兵を徴発して漢王のもとへ送った。
十一月 日食
随何、九江王英布を説いて楚から離反させる
- 随何は九江に到着したが、九江王英布に三日間も面会できなかった。そこでまず太宰を説き、自分が斬られてもよいから一度会わせよと迫った。
- 英布に会うと、随何は、楚を強いからと頼みにして臣従しながら、項羽のために十分な兵を出さず、彭城決戦の際にも淮水を渡って救援しなかったのは、臣従の実を欠いていると責めた。
- さらに、楚は義帝を殺して不義の名を負い、漢は諸侯をまとめて持久戦に持ち込み、形勢はむしろ漢に利があると説いた。
- 九江王が楚に背けば、項羽はその対処に足止めされ、その間に漢が天下を取るのは確実だと説得したので、英布はひそかにこれを承諾した。
- ちょうど楚の使者が九江にいて出兵を催促していたため、随何はその場で「九江王はすでに漢に帰した」と言い放った。事ここに至って英布も決断し、楚使を殺して挙兵した。
- 項羽は項声・龍且を派遣して九江を攻め、数か月ののち九江軍を破った。英布は逃れて漢へ向かい、随何もこれに同行した。
- 十二月、英布は漢王のもとへ到着した。漢王は最初、足を洗いながらぞんざいに召し入れたため英布は激怒したが、宿舎・帳幕・飲食・従者の待遇が王者にふさわしく整えられているのを見ると大いに喜んだ。
- そのころ楚は項伯に命じて九江兵を回収し、英布の妻子を皆殺しにしていた。英布配下の旧臣の一部は兵数千を率いて漢に合流し、漢王は英布に兵を加えて成皋に駐屯させた。
六国復興案と張良の反対
- 楚軍がしばしば漢の甬道を断って兵糧不足が起こると、漢王は酈食其とともに楚の勢力を削ぐ方策を議した。
- 酈食其は、秦が滅ぼした六国の後継者を再び立てれば、その旧臣民は恩徳を感じて漢に帰服し、楚もまた服従せざるを得なくなると説いた。
- 漢王は賛成して印を刻ませ、酈食其に諸国を巡らせようとした。
- そこへ張良が戻り、事情を聞くと激しく反対した。今の漢王には湯王・武王のように天下を完全に制して旧王家を保護するだけの余力がなく、六国を立てれば遊士たちはそれぞれ旧主のもとへ帰り、かえって敵を増やすだけだと論じた。
- また、楚だけが強大な現状で六国を立てれば、諸国は楚になびいてしまい、漢は彼らを臣下とすることができないとも述べた。
- 漢王はこれを聞いて計画を取りやめ、急いで印を壊させた。
- 荀悦は後に、この件を材料に、同じ策でも「形・勢・情」が異なれば成否が変わると論じている。
陳平の離間策
- 漢王が「天下の争いはいつ収まるのか」と問うと、陳平は、項羽を支える骨のある重臣は数人しかおらず、黄金を用いて離間工作を行えば、猜疑心の強い項羽は必ず自滅すると答えた。
- 漢王は黄金四万斤を与え、使途を問わず陳平に任せた。
- 陳平は楚軍の中へ多くの金を流して、「鍾離昧らは戦功に比して封地を得られず、いずれ漢と結んで項氏を滅ぼし、土地を分けようとしている」との噂を広めた。
- 項羽はこれを信じ、鍾離昧らへの疑念を深めた。
夏四月 滎陽攻防と范増の失脚
- 項羽は滎陽の漢王を強く包囲した。漢王が和睦を求め、滎陽以西を漢に属させると申し出ても、范増はなお急攻を勧めた。
- そこで項羽が漢へ使者を送ると、陳平は豪華な饗応を準備して迎え、わざと「亞父の使者かと思ったら項王の使者か」と驚いたふりをし、豪勢な料理を撤去して粗末なものに替えた。
- 使者が帰って報告すると、項羽は范増を疑うようになった。范増は怒り、「天下のことはもう定まった。あとは王自らやれ」と言って帰郷を願い出た。
- しかし彭城へ帰り着く前に背中の腫れ物が悪化して死んだ。
五月 紀信の身代わりと漢王の脱出
- 滎陽の情勢が危急となると、紀信が漢王に、自分が王のふりをして楚を欺くので、その隙に脱出せよと申し出た。
- 陳平は夜、東門から女二千余人を出して楚軍の注意を引きつけた。楚軍が四方からこれを攻める中、紀信は天子の車に乗り、黄屋・左纛を備えて「食糧は尽きた。漢王は降る」と城東で叫ばせた。
- 楚軍がこれに気を取られているうちに、漢王は数十騎とともに西門から脱出した。城は韓王信・周苛・魏豹・樅公らに守らせた。
- 項羽が紀信を捕えて漢王の所在を問うと、紀信はすでに逃れたと答えたため、項羽は彼を焼き殺した。
- 城内では周苛と樅公が「裏切って王となった者はともに城を守るに足りない」と言って魏豹を殺した。
宛・葉への転進と彭越の遊撃
- 漢王は滎陽を脱したあと成皋に至り、さらに関中へ入って兵を集め、再び東へ向かおうとした。
- このとき轅生が、武関から南方へ出れば項羽を引きつけられ、その間に滎陽・成皋方面を休ませ、韓信らが河北・燕・斉を安定できると進言した。漢王はこれに従い、宛・葉の間に出兵し、英布とともに兵を収めた。
- 項羽はこれを聞いて南下したが、漢王は深く塁を固めて戦わなかった。
- 漢王が彭城で敗れて西へ退いた後も、彭越は独自に黄河沿いに兵を保ち、遊撃軍として楚の後方を襲い、補給路を断っていた。
- この月、彭越は睢水を渡って項声・薛公と戦い、下邳で薛公を破って殺した。
- これを受けて項羽は終公に成皋を守らせ、自ら東へ向かって彭越を討った。漢王は北上して終公を破り、再び成皋へ軍を戻した。
六月 成皋の再争奪と韓信への兵権移譲
- 項羽が彭越を破って戻ると、彭越は西進して滎陽を奪い、周苛を生け捕りにした。項羽は周苛に降れば上将軍・三万戸を与えると言ったが、周苛は項羽を痛罵して拒み、ついに煮殺された。樅公も殺され、韓王信は捕虜となった。
- 項羽はさらに成皋を包囲し、漢王は滕公と二人で車に乗って玉門から脱出し、北へ黄河を渡って小修武の伝舎に宿した。
- 夜明けに自らを漢使と称して趙営へ入り、張耳・韓信がまだ起きていないうちに印符を奪い、諸将を呼び出して配置を組み替えた。
- 張耳と韓信は漢王の来訪を知って驚いたが、漢王は張耳に趙の巡察守備を命じ、韓信を相国に任じて、未動員の趙兵を率い斉を攻めるよう命じた。
- 成皋から逃げ出してきた諸将も次第に漢王のもとへ合流した。
- 楚は成皋を奪い、西進しようとしたが、漢は鞏でこれを防いだ。
秋七月 星変と臨江王の死
- 大角に孛星が現れた。これは大乱・大兵の兆しとみなされる天変である。
- 臨江王共敖が死に、その子の尉が跡を継いだ。
八月 小修武で対陣、彭越・劉賈の後方攪乱
- 漢王は韓信の軍を得て兵勢を回復し、黄河南岸に進んで小修武に軍を向け、再び楚と戦おうとした。
- しかし郎中鄭忠が、高塁深塹で持久し、軽々しく戦うべきではないと説いたため、漢王はこれを採用した。
- 漢王は将軍劉賈と盧綰に歩兵二万と騎兵数百を与え、白馬津から楚地へ入らせ、彭越を支援して楚の積聚を焼かせた。
- 劉賈は楚兵と戦わず、堅壁して彭越と連携した。彭越は梁地を巡って睢陽・外黄など十七城を落とした。
九月 敖倉確保の進言
- 項羽は大司馬曹咎に成皋死守を命じ、「漢王が挑戦しても決して応じるな。自分は十五日で梁地を平定して戻る」と言い残して東進した。
- 漢王は成皋以東を捨てて鞏・洛に退き、楚を防ごうと考えた。
- これに対し酈食其は、王者にとって民の基盤は食であり、敖倉には天下から運び込まれた大量の穀物があるのだから、ここを確保しないのは自ら有利を捨てるものだと説いた。
- また、成皋・白馬津・太行・飛狐口を押さえて形勢上の優位を示せば、諸侯は漢に帰すと論じた。
- 漢王はこれに従い、再び敖倉の確保を図ることにした。
酈食其の斉説得と韓信の東進
- 酈食其は続けて、燕・趙はすでに定まり、残る斉は広くて変化が多く、数万の兵でも短期には破れないので、自分を遣わして説得させてほしいと願い出た。漢王はこれを許した。
- 酈食其は斉王田広に、天下の帰趨は漢にあると説いた。漢王は先に咸陽へ入り、義帝のために兵を挙げ、降城の将には侯爵を与え、得た財物は将兵と分け合う。一方項羽は約束を違え、義帝を殺し、功には報いず罪は忘れず、天下の人心を失っていると述べた。
- さらに、漢はすでに敖倉・成皋・白馬津・太行・飛狐口を押さえており、後れて服する者は先に亡びるだろうと警告した。
- もともと斉は韓信の来攻を聞き、華無傷・田解に重兵を率いさせて歴下に駐屯させていた。
- しかし酈食其の説を受け入れると、斉は漢との講和に応じ、歴下の防備を解いて、酈食其と日々酒宴にふけった。
- 韓信は平原まで進んだところでこのことを聞き、進軍を止めようとしたが、弁士蒯徹が、将軍は詔を受けて斉を撃つのだから、酈食其一人の功に引き下がる必要はないと煽った。
- 韓信はこれをもっともとして渡河を決行した。