資治通鑑秦紀 始皇帝 二十六年 前221年

斉の滅亡と天下統一

  • 王賁は燕から南下して斉へ攻め込み、突然臨淄へ入った。斉人は抵抗できなかった。
  • 秦は五百里の封地を与えると斉王建を欺き、降伏させた。王建は河内郡の共へ移され、松柏の間に置かれて餓死した。
  • 斉人は、王建が諸侯と早く連合せず、買収された賓客に従って国を滅ぼしたことを怨み、共へ王建を住まわせたのは賓客だった、と歌った。

司馬光の合従論

  • 司馬光は、合従・連衡の議論は変転したが、六国に利益があったのは合従だったと論じる。三晋は斉・楚の外壁であり、斉・楚は三晋の根である。互いを攻めれば、自ら防壁や根を断つことになる。秦に媚びれば自国だけは攻められないと考えたのは、道理に反する愚行だった。

皇帝号と新秩序

  • 秦王は三皇の徳と五帝の功を兼ねたと自負し、「皇帝」と称した。皇帝の命令を「制」「詔」、一人称を「朕」と定め、父の荘襄王を太上皇と追尊した。
  • 死後の行いを子や臣が評価するのは不当だとして諡法を廃止し、自らを始皇帝、後継者を二世・三世から万世まで数えることとした。

五徳終始説の採用

  • 斉の鄒衍が唱えた五徳終始説を採用し、周の火徳を秦の水徳が制したとした。歳首を十月に改め、朝賀も十月一日に行い、服装・旗を黒とし、数は六を基準とした。

郡県制の確立

  • 丞相王綰は遠方の燕・斉・荊を統治するため皇子を王に封じるよう求めた。廷尉李斯は、周の同姓諸侯も後世には互いに争ったとして、全国を郡県とし、皇子や功臣には租税から褒賞を与える方が統治しやすいと主張した。
  • 始皇帝は、諸侯の存在こそ戦乱の原因だとして李斯案を採用し、天下を三十六郡に分け、各郡に守・尉・監を置いた。

武器回収と咸陽整備

  • 天下の武器を咸陽へ集めて鋳つぶし、鐘を掛ける器具と十二体の金人を作った。金人は各千石の重さで、宮廷に置かれた。
  • 法度、度量衡、丈尺を統一し、各地の豪族十二万戸を咸陽へ移した。
  • 諸侯を滅ぼすたび、その宮殿を写して咸陽北側の丘陵に建て、美女や鐘鼓を移した。雍門から涇水・渭水の合流地点まで、宮殿・複道・楼閣が連続した。