資治通鑑秦紀 始皇帝 二十八年 前219年

泰山封禅

  • 始皇帝は東方の郡県を巡り、鄒の嶧山に登って石碑を立て、功績を刻ませた。嶧山は鄒県南方にある。
  • 泰山の麓へ魯の儒者七十人を招き、封禅の礼を議論させた。儒者たちは蒲で車輪を包み、山の土石や草木を傷つけず、地を掃いて茅の敷物を用いるなど古礼を述べたが、議論がまとまらなかった。始皇帝は実行困難として儒者を退けた。
  • 車道を整えて泰山南面から山頂へ登り、石碑を立てて徳を称えた。北面から下り、梁父山で地を祭った。礼式は雍で上帝を祭る太祝の儀礼を一部用いたが、祭文などは秘匿された。

海辺の祭祀と琅邪台

  • 始皇帝は海岸を東へ巡り、名山・大川と八神を祭った。八神とは天主・地主・兵主・陰主・陽主・月主・日主・四時主である。
  • 琅邪の景観を喜び、三か月滞在して琅邪台を築き、徳と功業を刻んだ。越王勾践の旧台を利用した可能性があり、台下へ三万戸を移したともいう。

徐市の仙薬探索

  • 燕の宋毋忌・羨門子高らは、肉体を解消して仙人となる術を唱え、燕・斉の怪異を好む者たちが伝習した。宋毋忌は火の精、羨門子高は碣石山の仙人ともされ、「形解」は尸解を意味する。
  • 斉威王・宣王、燕昭王以来、蓬萊・方丈・瀛洲の三神山を海中に探す試みが続いていた。始皇帝のもとでも斉人徐市らが仙薬探索を願い、童男童女数千人を伴って海へ出た。
  • 船は風に阻まれたとして到達できなかったが、遠くに神山を望んだと報告した。

彭城から湘山へ

  • 始皇帝は彭城で斎戒し、泗水に沈んだという周の鼎を千人に探させたが発見できなかった。泗水は魯国卞県に発し、彭城・下邳を経て淮水へ注ぐ。
  • 淮水を渡って衡山・南郡へ向かい、長江を下って湘山を祭ったが、暴風で渡れなくなった。
  • 博士から湘君は堯の娘で舜の妻だと聞くと、始皇帝は怒り、刑徒三千人に湘山の木をすべて伐らせ、山肌を赤くした。舜の二妃は江湘の間で没し、青草山に葬られたと伝えられる。
  • 南郡から武関を経て帰還した。

張良の復讐準備

  • 韓人張良は、父祖が五代にわたり韓の宰相を務めた家柄だった。韓の滅亡後、家産千金を投じて秦への復讐を企てた。