資治通鑑秦紀 二世皇帝 元年 前209年

冬十月 即位と大赦

  • 冬十月戊寅、二世皇帝胡亥は天下に大赦を行った。胡亥は始皇帝の末子である。

春 東方巡行

  • 二世は李斯を伴って東方の郡県を巡り、碣石から海岸沿いに南下して会稽へ至った。
  • 始皇帝が立てた石碑の傍らに、同行した大臣たちの名を刻み加え、先帝の功業と徳を明らかにした後、帰還した。

夏四月 趙高による粛清策

  • 咸陽へ戻った二世は、人生は六頭の駿馬が小さな隙間を駆け抜けるほど短いとして、天下の快楽を尽くしたいと趙高に相談した。
  • 趙高は、沙丘の政変を皇子や大臣が疑っているため、まず法を厳しくし、連座制によって大臣・宗室を滅ぼし、先帝の旧臣を排除して二世の側近に置き換えるべきだと説いた。
  • 二世はこれを採用し、法をいっそう苛酷にした。皇子や大臣の事件は趙高に取り調べさせた。

皇族の大量処刑

  • 公子十二人を咸陽の市場で処刑し、公主十人を杜で身体を裂いて殺した。財産は官へ没収され、連座して逮捕される者は数え切れなかった。
  • 公子将閭ら三兄弟は宮中に拘禁された。使者から不臣の罪を告げられると、将閭は朝廷の礼、廊廟での作法、命令への応答を一度も誤っていないと訴えた。しかし使者は罪状を議論する権限がないと答えたため、三人は無実を叫び、剣で自殺した。
  • 公子高は逃亡すれば一族が処刑されると恐れ、始皇帝の後を追って殉死し、驪山の麓へ葬られたいと願い出た。二世は喜び、埋葬費として十万銭を与えた。

阿房宮工事の再開

  • 阿房宮の工事を再開し、兵士・技術者五万人を咸陽の守備に集め、弓射や犬馬・鳥獣の扱いを訓練させた。
  • 食糧が不足すると郡県に供出を割り当て、豆・穀物・飼料を運ばせた。輸送者には自分の食糧も持参させ、咸陽から三百里以内の穀物を食べることを禁じた。

秋七月 陳勝・呉広の蜂起

  • 陽城の陳勝と陽夏の呉広は、漁陽守備へ送られる九百人の中で屯長を務め、大沢郷に駐屯していた。徴発されたのは閭里左側に住む貧民などで、「閭左」は秦の徴発対象が富者から貧者へ拡大したことを示す。
  • 大雨で道が遮断され、期限に遅れれば全員死刑になる見込みとなった。陳勝と呉広は将尉を殺し、どうせ多くが守備地で死ぬなら、壮士として名を挙げよう、王侯将相は血筋で決まるものではない、と呼びかけた。
  • 扶蘇と項燕の名を偽って掲げ、壇上で盟約し、「大楚」を称した。陳勝は将軍、呉広は都尉となった。

陳の占領と張楚政権

  • 大沢郷・蘄を攻略し、葛嬰に蘄以東を巡らせた。銍・酇・苦・柘・譙などを次々に下し、陳へ着くころには車六、七百乗、騎兵千余、歩兵数万人に膨らんだ。
  • 陳の正規の守・令・尉は不在で、留守を預かる丞だけが譙門で戦った。丞が戦死すると、陳勝は陳を占領した。
  • 張耳と陳余は秦の追及を避け、名を変えて陳の里門を守る下役となっていた。陳余が里吏から鞭打たれて反抗しようとした際、張耳は足を踏んで制止し、小さな辱めのため一吏と争って死ぬのかと諭した。
  • 二人が陳勝に会うと、陳の豪族・父老は陳勝を楚王に立てようとした。張耳・陳余は、まず西へ進んで秦を討ち、六国の後裔を立てて秦の敵を増やすべきで、陳だけで王となれば天下が離反すると反対した。
  • 陳勝は聞き入れず、自ら楚王となり、政権を「張楚」と号した。「張楚」は楚を拡張・再興する意味とされる。
  • 各地では秦法に苦しむ人々が長吏を殺して陳勝に呼応した。二世は反乱の報告に怒ったため、後の使者は「鼠や犬のような盗賊にすぎず、郡守・郡尉が鎮圧中だ」と偽って安心させた。

呉広の西征と趙攻略軍

  • 陳勝は呉広を代理の王とし、諸将を監督させて滎陽を攻めさせた。
  • 張耳・陳余の進言により、武臣を将軍、邵騒を護軍、張耳・陳余を左右校尉とし、三千人で趙を攻略させた。
  • 鄧宗には九江郡を攻略させた。この時、楚兵を称する数千人規模の集団は数え切れないほど存在した。

葛嬰の処刑と諸将派遣

  • 葛嬰は東城で襄彊を楚王に立てたが、陳勝がすでに王となったと知ると襄彊を殺して帰還した。陳勝は葛嬰も処刑した。
  • 陳勝は周市を魏へ送り、上蔡の蔡賜を房君・上柱国とした。上柱国は楚で最上級の爵位だった。
  • 陳の賢人で兵法に通じる周文へ将軍印を与え、西方の秦を攻めさせた。

武臣の趙平定

  • 武臣らは白馬津から黄河を渡り、各県の豪族を説得して数万の兵を集めた。武臣は武信君と号し、趙の十余城を降したが、他の城は守りを固めた。
  • 范陽の蒯徹は、戦って城を取るより、秦の県令を処刑せず侯に封じれば、燕・趙の諸城が自発的に降ると説いた。
  • 武臣は范陽令徐公を百乗の車、二百騎、侯印をもって迎えた。徐公が華やかな車で燕・趙を巡ると、三十余城が戦わずに降伏した。

周文の函谷関突破と敗退

  • 陳勝は秦の混乱を軽視し、防備を整えなかった。孔鮒は、敵が攻めてこないことを頼まず、自軍が攻められない態勢を作るべきだと諫めたが、陳勝は聞かなかった。
  • 周文軍は進軍しながら兵を集め、函谷関に至るころには戦車千乗、兵数十万となり、咸陽近郊の戲水に布陣した。
  • 二世が狼狽すると、少府章邯は近県の徴兵では間に合わないとして、驪山の刑徒を赦免し、武器を与えるよう求めた。章邯は刑徒・奴隷の子らを動員して楚軍を大破し、周文を敗走させた。

趙王武臣の自立

  • 張耳・陳余は、周文の敗退と、陳勝のもとへ戻った諸将が讒言で処刑されていることを知り、武臣に自立を勧めた。
  • 八月、武臣は趙王となり、陳余を大将軍、張耳を右丞相、邵騒を左丞相とした。
  • 陳勝は激怒して一族を処刑しようとしたが、上柱国蔡賜は、秦が滅びないうちに趙を敵にすれば秦をもう一つ増やすことになる、と諫めた。
  • 陳勝は武臣らの家族を宮中に拘束しつつ、張耳の子・張敖を成都君に封じ、趙王へ祝賀使を送り、西進を促した。
  • 張耳・陳余は、陳勝が秦を滅ぼせば趙を攻めると考え、北に燕・代、南に河内を攻略し、趙を拡張するよう進言した。武臣は採用し、韓広を燕、李良を常山、張黶を上党へ送った。

九月 劉邦と項梁の挙兵

  • 九月、沛の劉邦が沛で、下相の項梁が呉で、狄の田儋が斉で挙兵した。

劉邦の出自と沛公就任

  • 劉邦は字を季といい、高い鼻と龍のような顔を持ち、左腿に七十二の黒子があった。人を愛し、施しを好み、度量が大きく、家業には熱心でなかった。
  • 泗水亭長となり、単父の呂公から人相を高く評価され、その娘を妻とした。娘は後の呂后である。
  • 驪山へ刑徒を護送した際、途中で多くが逃亡したため、豊西沢で残る者も解放し、自分も逃亡した。十余人の壮士が従った。
  • 酒に酔って夜道を進み、大蛇を斬った。老女が、白帝の子である蛇を赤帝の子が殺したと泣いて消えたという伝説があり、漢が秦に代わる瑞兆とされた。
  • 劉邦は芒・碭の山沢へ隠れ、怪異の噂によって沛の若者たちが集まった。
  • 陳勝の蜂起後、沛県令も呼応しようとした。蕭何・曹参は、秦の官吏である県令には民が従わないため、亡命者を呼び戻して住民を制圧するよう勧めた。
  • 樊噲が劉邦を呼び、劉邦が数十から百人を率いて来ると、県令は翻意して城門を閉じ、蕭何・曹参を殺そうとした。二人は城を越えて劉邦のもとへ逃れた。
  • 劉邦が城内へ書状を射込み、父老に利害を説くと、住民は県令を殺して劉邦を迎え、楚の制度に従って「沛公」に立てた。蕭何・曹参らは三千人を集め、諸侯の反秦運動に加わった。

項梁・項羽の呉制圧

  • 項梁は楚将項燕の子で、殺人事件の後、兄の子・項籍と呉へ逃れていた。
  • 項籍は幼いころ、文字も剣術も途中でやめ、一人を相手にする術ではなく万人を相手にする兵法を学びたいと言った。項梁から兵法を学ぶと大意は理解したが、最後まで学び通さなかった。
  • 項籍は身長八尺余で、鼎を持ち上げる怪力と抜群の才気を備えていた。
  • 会稽守殷通は陳勝の挙兵に応じ、項梁と桓楚を将軍にしようとした。項梁は、桓楚の居場所を知るのは項籍だけだとして項籍を呼び、目配せして殷通を斬らせた。
  • 項梁は殷通の首を持ち、その印綬を帯び、旧知の豪吏を招いて挙兵の意図を説明した。呉中と管下諸県から精兵八千を集め、会稽守を称し、項籍を副将として諸県を攻略させた。項籍はこの時二十四歳だった。

田儋の斉自立

  • 田儋は斉王族で、従弟の田栄、その弟田横とともに豪健で人望があった。
  • 周市が狄へ来ると、田儋は奴隷を縛って県廷へ連れ、処刑の許可を求めるふりをして狄令を殺した。
  • 豪族や子弟を集め、斉は古来の大国で田氏が王となるべきだと宣言し、斉王を称した。周市を退け、東方の斉地を平定した。

韓広の燕自立

  • 韓広が燕を攻略すると、燕の豪族は彼を燕王に立てた。韓広は母が趙にいることを心配したが、燕人は趙には秦・楚への対応で母を害する余裕がないと説いた。
  • 韓広は燕王となり、数か月後、趙はその母と家族を燕へ送り返した。

趙王救出

  • 趙王武臣がわずかな供だけで外出した際、燕軍に捕らえられ、燕は領土の割譲を要求した。趙の使者は次々に殺された。
  • 趙軍の炊事などを担う下級兵が燕将に会い、張耳・陳余は本心では趙王の死を望み、趙を三分して自ら王になろうとしていると説いた。趙が二人の賢王に分かれれば燕は滅ぼされると警告したため、燕将は武臣を返した。下級兵は御者となって趙へ帰った。

魏王咎の擁立

  • 周市は魏の地を平定し、旧魏公子の寧陵君魏咎を王に立てようとしたが、魏咎は陳勝のもとにいた。
  • 諸侯は周市自身に王となるよう求めたが、周市は忠義を理由に拒否し、魏王の後裔を立てるべきだと主張した。
  • 五度にわたり魏咎の引き渡しを求めた結果、陳勝はようやく許した。魏咎を魏王、周市を魏相とした。

衛の滅亡

  • 二世は衛君角を廃して庶人とした。周代から続いた列国のうち、最も遅くまで残った衛もここに祭祀を絶たれた。