資治通鑑秦紀一 昭襄王 五十二年 前255年

范雎の失脚と蔡沢の登用

  • 河東守の王稽が諸侯と通じた罪で処刑され、かつて彼を推挙した応侯范雎は気落ちした。鄭安平の離反も重なり、昭襄王は国内に良将が乏しく、外に敵国が多いことを憂えた。
  • そこへ燕の蔡沢が秦に入り、まず范雎に対して「功を成した者は身を引くべきだ」と説いた。商鞅・呉起・文種のように、功臣でも退かなければ危ういと諭し、周公・閎夭のように身を保って名を全うする道を勧めた。
  • 范雎はこの意見を受け入れ、蔡沢を王に推薦した。昭襄王は蔡沢との対話を喜び、客卿とし、やがて范雎は病を理由に辞任、蔡沢が相国となった。ただし在任は長く続かず、数か月で罷免された。

荀卿、楚で蘭陵令となる

  • 楚の春申君は荀卿を蘭陵令に任じた。荀卿は趙にいたころ、趙孝成王の前で臨武君と兵法を論じたことで知られていた。
  • 臨武君が「兵の要は天時・地利・変化・奇策にある」と述べたのに対し、荀卿は「戦いの根本は民心を一つにすることにある」と主張した。弓馬や技量が優れていても、上下が離心していては勝てず、仁義によって民が帰服してこそ強兵になると論じた。
  • また荀卿は、詐術や功利だけに頼る軍は、雇われ兵のようなもので、強敵に当たれば崩れると批判した。これに対し、仁義と礼を基盤にする軍は、民衆が進んで従い、敵国の民まで味方につけるため、真に天下を制すると説いた。
  • さらに将軍の心得として、疑いを捨てて決断すること、賞罰を信実に行うこと、慎重さを失わないこと、民を虐げず降る者を受け入れることなどを挙げ、王者の兵は暴を禁じ害を除くためのもので、争奪を目的とするものではないと結論づけた。

燕王の死と周・魯の処遇

  • 燕の孝王が死去し、子の喜が立った。
  • 周の民のうち東周側に属していた者たちは東へ逃れたが、秦は西周公を&KR0034;狐の聚へ移した。
  • また楚は魯の頃公を莒へ移し、その地を奪った。これにより魯は事実上滅亡した。