資治通鑑秦紀一 莊襄王 三年 前247年

上党・太原方面の攻略

  • 王齕が上党の諸城を攻め、ことごとく陥落させた。ここに太原郡が初めて置かれた。
  • 蒙驁もまた軍を率いて魏を攻め、高都と汲を奪った。

信陵君、魏救援に立つ

  • 魏軍はたびたび敗れ、魏王は危機を憂えて趙にいる信陵君の帰国を求めた。しかし信陵君は、以前の件で再び罪を得ることを恐れて戻ろうとせず、家臣にも魏の使者を通すことを禁じた。
  • そのため誰も諫めなかったが、毛公と薛公が「公子が諸侯に重んじられるのは魏の存在があってこそだ。いま魏が危ういのに救わないなら、宗廟が滅んだ後どうして天下に立てようか」と迫った。
  • 信陵君は色を変えて急ぎ魏へ戻り、魏王は彼を抱いて泣き、上将軍に任じた。
  • 信陵君が諸侯に援軍を求めると、五国はみな兵を送った。信陵君はこれを率いて河外で蒙驁を破り、函谷関まで追撃してから撤退した。

安陵君と縮高

  • 安陵出身の縮高の子が秦に仕えて管を守っていた。信陵君は管を攻め落とせず、安陵君に対し縮高を送って自軍に仕えさせてほしいと求め、執節尉にするつもりだと伝えた。
  • 安陵君は自国の民に命令を強制できないとして、使者に直接請わせた。縮高は「父が子を攻めるのは笑いものだし、君主に背くこともできない」と断った。
  • 信陵君は怒って安陵に兵を向けると脅したが、安陵君は、先君から受け継いだ国法により、父を害し君を弑した者は赦されず、縮高を無理に差し出すことは法に背くと拒絶した。
  • 事情を知った縮高は、自分のために安陵が魏の怒りを受けてはならないとして、使者の宿舎に赴き自刎した。
  • 信陵君はこれを聞いて喪服に着替え、宿舎を避け、自らの失言を安陵君に詫びた。

信陵君への讒言と死

  • 秦は魏で黄金を用いて信陵君と魏王の間を離間しようとし、かつて晋鄙に近しかった者を利用して「諸侯は魏王でなく信陵君に属している」と魏王に吹き込ませた。
  • さらに秦はたびたび使者を送って、まるで信陵君がすでに王になったかのように祝賀した。魏王は日ごとに悪評を聞いて疑いを深め、ついに信陵君の兵権を奪った。
  • 信陵君は再び讒言で退けられたと悟り、病を称して朝廷に出ず、酒色にふけって四年後に死んだ。

信陵君の喪礼

  • 韓王が信陵君の子を弔おうとしたが、子順は「隣国の君主が弔問する場合、喪主は君であって子ではない」と礼の筋を説いた。
  • そのため信陵君の子は韓王の弔問を辞退した。

荘襄王の死

  • 五月丙午、荘襄王が死去した。
  • 太子政が立った。十三歳であり、国政はすべて文信侯呂不韋が決裁し、「仲父」と称された。