秦の魏攻撃
趙、ついに中山を滅ぼす
- 趙の主父は斉・燕と協力して中山を滅ぼし、その王を膚施へ移した。
- 凱旋後、功臣に褒賞を与え、大赦を行い、五日間にわたって酒宴を開いた。
公子章の不満と側近の警戒
- 主父は長子の章を代に封じて安陽君としたが、章は奢侈で、弟の恵文王の下に置かれることを不満としていた。
- 主父は田不礼を章の相に任じたが、李兌は肥義に対し、章と田不礼は必ず陰謀を企てると警告し、病と称して政務から退くよう勧めた。
- しかし肥義は、かつて主父から王を託されたときの誓いを守るべきだとして拒み、身の安全よりも信義を重んじた。
- 李兌は公子成にたびたび会って、田不礼らへの備えを固めた。肥義も信期に命じ、王を召す者があれば必ず自分を通すよう警戒させた。
主父、趙分割を考える
- 主父は群臣朝会の際、脇から恵文王を観察した。長子の章が弟に臣として拝礼する姿を見て不憫に思い、代を分け与えて章を王にしようと考えるようになった。
- だが方針はなお定まらず、そのまま沙丘への遊幸に至った。
沙丘の乱
- 主父と王が沙丘の離宮に滞在中、公子章と田不礼は配下を率いて反乱を起こし、主父の命令と偽って王を呼び出そうとした。
- 肥義は先に入って殺され、高信は王を守って戦った。
- 邯鄲から駆けつけた公子成・李兌は四邑の兵を動員して乱を防ぎ、公子章と田不礼を討ち、その一党を滅ぼした。
- 乱後、公子成は相となって安平君と号し、李兌は司寇となった。
主父の幽閉と死
- 恵文王が若年だったため、公子成と李兌が政権を専断した。
- 公子章は敗走して主父のもとへ逃げ込み、主父はこれを受け入れた。これにより公子成・李兌らは主父まで包囲した。章が死んだ後も、ここで兵を解けば自分たちが誅されると恐れ、包囲を続けた。
- 宮中の者に後から出た者は皆殺しにすると命じたため、人々は外へ出たが、主父だけは出られず、食も絶たれた。
- 主父は雀の雛を探して食いつないだが、三か月余りののち沙丘宮で餓死した。その死が確実になってから、ようやく喪が発せられ諸侯に報じられた。
乱の背景
- 主父はもとは長子の章を太子としていたが、のちに寵愛した呉娃との間に何が生まれると、章を廃して何を立てた。
- その後、呉娃が死ぬと愛情が衰え、旧太子章を憐れんで、趙を二分して両者を王にしようと迷ったことが、この乱の根本原因となった。
秦の人事
- 秦では楼緩が魏の相を免ぜられ、魏冉がこれに代わった。