楽毅の大連合軍、斉を破る
- 燕王は全国の兵を動員し、楽毅を上将軍とした。秦の尉斯離も三晋の軍を率いて合流し、趙王は相国の印を楽毅に授けた。
- 楽毅は秦・魏・韓・趙の兵を合わせて斉を攻め、斉の湣王は国中の兵を集めて済西で迎え撃った。
- しかし斉軍は大敗し、秦・韓軍は先に引き揚げ、魏軍は宋地を略し、趙軍は河間を収めた。楽毅自身は燕軍を率いて勝利に乗じ、深く斉へ進軍した。
楽毅、臨淄を占領
- 劇辛は、辺城を奪って実利を取るべきで深入りは危険だと諫めたが、楽毅は斉王の暴政によって国内に反乱が起こると判断し、さらに進軍した。
- 果たして斉は大混乱に陥り、湣王は出奔した。
- 楽毅は臨淄に入って宝物や祭器を燕へ送り、燕王も済水まで出て軍をねぎらい、楽毅を昌国君に封じた。
- その後、楽毅は斉の未服属の城を平定し続けた。
湣王、衛・鄒・魯を転々とする
- 湣王はまず衛へ逃れ、衛君は宮殿を避けて住まわせ、臣下の礼まで取ったが、湣王は無礼だったため衛人に侵され、去って鄒へ向かった。
- 鄒や魯でも驕った態度を改めなかったため受け入れられず、ついに莒へ逃げた。
淖歯、湣王を弑す
- 楚は淖歯に兵を授けて斉を救わせ、そのまま淖歯は斉の相となった。
- だが淖歯は燕と斉の地を分け合おうと考え、湣王を捕えて罪を数えた。血の雨、地の裂け目、宮門で泣く人の怪異は、天・地・人が王に警告したものだという理屈である。
- そして湣王を鼓里で弑した。
荀子の国家論
- 司馬光はここで荀子の議論を長く引き、国家は道義によって保てば安定し、権謀だけに頼れば危亡すること、斉湣王や宋康王がその典型であることを論じる。
- とくに、斉が礼義ではなく権謀で強大化したため、最後には燕・趙の攻撃に遭って枯木のように一挙に崩れたと総括している。
王蠋の節義
- 楽毅は画邑の賢者王蠋を招くため、その周囲三十里に兵が入らぬよう命じ、人を送って招聘した。
- 燕人が来なければ邑を屠ると脅すと、王蠋は忠臣は二君に仕えず、烈女は再嫁しないとして拒否し、木に首をかけて自殺した。
楽毅の善政と斉地経営
- 楽毅は勝利後も軍を整え、掠奪を禁じ、斉の遺民を求めて礼遇し、賦税を軽くし、旧来の政治を修復した。民衆はこれを喜んだ。
- そこで左軍を膠東・東萊へ、前軍を泰山東方と琅邪へ、右軍を河・済の間の阿・鄄へ、後軍を北海方面へ進め、中軍は臨淄を守って斉の都を鎮めた。
- 郊外では桓公・管仲を祀り、賢者の里を顕彰し、王蠋の墓も整えた。
- 半年ほどで斉の七十余城を落とし、これらを郡県とした。
秦・魏・韓の会合