白起、楚の鄢・鄧・西陵を取る
澠池の会
- 秦王は使者を送り、友好のため河外の澠池で趙王と会うことを望んだ。
- 趙王は行くべきか迷ったが、廉頗と藺相如は、拒めば趙が弱く臆病だと見られるとして赴くよう勧めた。
- 趙王はついに出発し、廉頗は三十日以内に帰国しなければ太子を立てて国の備えを固めると約して見送った。
藺相如、秦王に屈せず
- 会盟の席で酒が進むと、秦王は趙王に瑟を弾かせた。
- 藺相如は逆に秦王へ缶を打たせようと求め、拒まれると「五歩の内であれば自分の頸血を大王にそそぐこともできる」と迫った。
- 秦王の左右は相如を斬ろうとしたが、相如の気迫に圧され、秦王はついに一打した。
- 宴は終わり、秦は趙に恥をかかせることができず、趙もまた十分な備えを示したため、秦は手を出せなかった。
- 帰国後、趙王は藺相如を上卿に任じ、その位を廉頗より上に置いた。
廉頗と藺相如の和解
- 廉頗は戦功ある武将の自分より、口先だけの藺相如が上位に立つのを恥として、公然と辱めると豪語した。
- しかし相如は、強秦が趙に兵を加えないのは自分と廉頗の両方がいるからであり、二虎が争えば共倒れになるとして、国家の急を私怨に優先させた。
- この話を聞いた廉頗は、はだかになって荊を背負い、相如の門で謝罪した。
- 二人は以後、刎頸の交わりを結んだ。
即墨包囲の始まり
- これより前、燕が安平を攻めたとき、臨淄の市掾であった田単は、一族に鉄を巻いた車軸で車を補強させて脱出した。
- 城が陥落すると他の者は車が壊れて燕に捕えられたが、田単の一族だけは逃げ延びて即墨へ奔った。
- この時点で斉の地はほとんど燕に属し、莒と即墨だけがなお落ちなかった。楽毅は右軍と前軍で莒を、左軍と後軍で即墨を囲んだ。
- 即墨の大夫が出戦して死ぬと、即墨の人々は田単を知略と兵事に優れた人物として推し、将として燕に抗させた。
楽毅、二邑を懐柔する
- 楽毅は二邑を一年攻めても落とせなかったため、包囲をやや解き、城から九里離れて砦を築いた。
- さらに、城から出た民を捕えず、困窮者には食を与え、生業に復帰させ、新たに服属した民を安んじようとした。
- しかし三年経ってもなお陥ちなかった。
燕昭王、楽毅を擁護
- 楽毅を讒言する者は、彼が兵権を長く握って斉で南面しようとしているのだと訴えた。
- だが燕昭王は大宴の席でこれを厳しく叱責し、自分は土地を子孫に残すためではなく先王の仇を報いるために賢者を求めたのであり、斉はもはや楽毅のものだ、もし斉を保って燕と並び立つ国とするならそれこそ望みだと公言した。
- そのうえで楽毅の妻子を厚く遇し、国相に礼物を持たせて送った。楽毅を斉王に立てるという申し出までしたが、楽毅は恐れ入って受けず、死をもって節義を誓った。
- このため斉人は彼の義に服し、諸侯もその信を畏れて、以後軽々しく動かなかった。
昭王の死と燕の内変
- やがて昭王が死に、恵王が立った。恵王は太子時代から楽毅を快く思っていなかった。
- これを知った田単は反間を用い、楽毅は燕の新王に誅されるのを恐れ、斉で王たろうとして即墨攻めを緩めているのだと流言した。
- 燕王はもとより楽毅を疑っていたため、ついに騎劫を代将として派遣し、楽毅を召還した。
- 楽毅は身の危険を察して趙へ奔り、燕軍はこれに憤り、軍心は乱れた。
田単の反撃準備
- 田単は城中の人々に食事のたび先祖を庭で祭らせ、鳥が降り集まるよう仕向けて、「神師が下る兆し」と宣伝した。
- さらに一兵卒を神師として祭り上げ、命令はすべて神意であるかのように称して民心を統一した。
- また、燕軍は斉の捕虜の鼻をそぎ、前列に立てるだろうと流言すると、燕軍はそのとおりにしたため、城中の者は怒って降伏を拒んだ。
- さらに、城外の墓を暴かれるのが何より恐ろしいと漏らすと、燕軍は墓を掘り返して死者を焼いたため、城中の人々の憤激は倍加した。
即墨の火牛戦
- 田単は自ら土木作業に加わり、妻妾まで兵卒の列に編入し、飲食を分け与えて士気を高めた。
- 他方では燕に降る約束をして油断させ、城中の富豪から千鎰の金を集めて燕将に贈り、「降伏後は一族を略奪しないでほしい」と頼んだ。燕軍はいっそう弛緩した。
- そこで田単は千余頭の牛を集め、赤い絹を着せ、五彩で龍文を描き、角に刃物を縛り、尾に葦束を結んで油を注いだ。夜、城壁にあけた穴から火をつけて放ち、壮士五千人をその後に続かせた。
- 驚いた牛は燕軍に突入し、これに城中から鬨の声と太鼓・銅器の音が重なったため、燕軍は大いに恐れて潰走した。
- 斉兵は騎劫を殺し、逃げる者を追撃した。通過する城邑はみな燕に叛き、ほどなく斉の七十余城はことごとく回復された。
襄王の帰国と田単の功
- 田単は莒にいた襄王を迎えて臨淄へ戻し、自らは安平君に封ぜられた。
- 襄王は太史敫の娘を王后とし、太子建を生ませたが、太史敫は娘が媒妁を経ずに自ら嫁したとして終生会おうとしなかった。それでも王后は人の子としての礼を失わなかった。
楽毅の晩年
- 趙王は楽毅を観津に封じて厚遇し、これによって燕・斉を牽制した。
- 燕の恵王は人を遣わして楽毅を責める一方、先王の恩に報いないのかと問い、自らの疑いについては詫びた。
- 楽毅は書簡で、伍子胥が呉王夫差に疑われて死んだ例を引き、自分は辱めを受けて先王の名を汚すことを恐れて趙へ去ったのであり、古の君子は絶交しても悪声を出さず、忠臣は去国しても名を汚さぬと述べた。
- これを受け、燕王は楽毅の子の閒を昌国君に封じ、楽毅自身とも往来を再開した。楽毅は趙で「望諸君」と号して生涯を終えた。
田単と貂勃
- 田単が淄水を渡るとき、寒さで歩けぬ老人に自分の裘を与えた。襄王はこれを見て、民心を買って王位をうかがうのではと疑った。
- だが殿下にいた珠を貫く者が、王が田単の善行を自らの善政として取り込めばよいと進言した。
- 王がその策を採ると、国中では「田単が民を愛するのは王の教えのおかげだ」と評されるようになった。
- さらに田単は貂勃を王に推薦した。王の寵臣九人は安平君を陥れようとし、貂勃を楚への使者に推した。貂勃が楚で長く留め置かれると、彼らは田単が内外に勢力を張って不軌を図ると王に訴えた。
- 王が田単を呼ぶと、田単ははだし・肉袒で出頭し、五日後にようやく無罪を告げられた。
- 帰国した貂勃は酒宴の席で王に対し、周文王や斉桓公に及ばぬ王が呂尚や管仲のような臣を得たなら、なおさら大切にすべきであると論じた。
- とくに、即墨の小城とわずかな兵で斉を復興した田単の功を挙げ、もしその時に自立して王になろうとすれば誰も止められなかったはずだが、彼は道義を選んで襄王を迎えたのだと力説した。
- 王はついに九人を殺してその家族を追放し、田単に夜邑万戸を加封した。
田単と魯仲連
- 田単が狄を攻めた際、魯仲連に会った。魯仲連は、この戦いでは勝てないと言い切った。
- 田単は憤って攻囲したが、三か月経っても落とせず、童謡まで立ったため、改めて理由を問うた。
- 魯仲連は、即墨の籠城時には宗廟滅亡の危機を前に死を覚悟していたので士卒も奮起したが、今は封邑と享楽があり、生の楽しみが死の覚悟を曇らせているから勝てないのだと説いた。
- 田単は翌日から奮励し、自ら矢石の下に立って鼓を執らせたため、ついに狄は下った。
孟嘗君の家の断絶
- かつて斉の湣王が宋を滅ぼした後、孟嘗君を排除しようとしたため、孟嘗君は魏へ奔って相となり、諸侯とともに斉を破った。
- その後、襄王が復国すると、孟嘗君は斉・魏いずれにも属さぬ中立の立場を取ったが、襄王はこれを恐れて和を結んだ。
- 孟嘗君が死ぬと諸子が後継を争い、結局、斉と魏が協力して薛を滅ぼし、その家は絶えた。