張儀、魏へ移る策を進言
- 張儀は秦武王に、東方で変事が起きればその隙に韓を攻めて地を広げられると説いた。
- そのためには、自分が魏へ行けば斉は必ず魏を攻めるから、斉と魏が争っている間に秦が韓を討ち、三川に入り、天子を奉じて図籍を押さえるべきだと述べた。
- 武王はこれを許した。
斉の魏攻めと張儀の逆用
- 斉王は張儀の移動を見て、果たして魏を攻撃した。
- 魏王は恐れたが、張儀は心配無用と言い、自ら斉軍を退かせると請け合った。
- 張儀は家臣を楚へ送り、楚使を装って斉王に、張儀の魏入りはもともと秦王との計略であり、斉と魏を戦わせて秦が三川を取るつもりだと告げさせた。
- 斉王はこれを信じ、魏攻めをやめて兵を引いた。
張儀の死と縦横家批判
- 張儀は魏の宰相となって一年ほどで死去した。
- 彼と蘇秦は合従連衡の術で諸侯を渡り歩き、高位と富貴を得たため、天下ではこれを真似る者が相次いだ。
- 魏人の公孫衍もまた「犀首」と号し、弁舌で名を上げた。
- そのほか蘇代・蘇厲・周最・楼緩らが天下にあふれ、詭弁と策略を競い合った。
孟子の大丈夫論
- 世人は、公孫衍や張儀はひとたび怒れば諸侯が震え、静かにしていれば天下が収まる大丈夫だと言った。
- しかし孟子は、彼らは大丈夫ではないと退けた。
- 君子とは、天下の正しい位に立ち、正しい道を行い、志が通れば民とともにその道を歩み、通らねば一人でもそれを守る者であり、富貴にも溺れず、貧賤にもくじけず、威武にも屈しない者だと定義した。
揚雄の評価
- 後世、揚雄は、張儀・蘇秦は鬼谷の術を学んだ詐術家にすぎず、聖人はこれを憎むと評した。
- 孔子の書を読みながら張儀・蘇秦のように行うのは、鳳凰が鳴きながら猛禽の翼を持つようなもので、言行不一致も甚だしいとした。
- また、子貢は乱を解くことを恥じず、説得しても富貴を求めなかったが、張儀・蘇秦は富貴を得られねば恥とした、と区別した。
- 才能は認めつつも、舜が「佞人を拒む」と言った才とは異なり、正道の才ではないと結論づけた。
甘茂、蜀相を誅す
秦魏会合と趙の宮廷
- 秦王と魏王は臨晋で会見した。
- 趙の武霊王は呉広の娘・孟姚を迎え、寵愛した。これが惠后であり、子の何を生んだ。