衛鞅の変法開始
- 衛鞅は秦の法制を大きく改めようとしたが、国内には反対が多かった。
- 彼は孝公に対し、民衆は改革の始まりを一緒に考えることはできなくとも、成功の利益は享受できる、偉業は世俗に迎合していては成しえないと説いた。
- 甘龍は、旧法に従えば役人も民も慣れており安定すると反論した。
- しかし衛鞅は、凡庸な者は旧俗に安住し、学者は既存の知識に溺れるだけだ、賢者は礼を改め不肖は旧制に縛られると述べた。
- 孝公はこれを是とし、衛鞅を左庶長に任じた。
新法の内容
- 衛鞅はついに新法を定めた。内容は以下のようなものである。
- 民を什伍に組み、互いに監視・告発させ、罪を隠せば連座とした。
- 悪事の告発には戦場で敵の首を取るのと同等の賞を与え、隠匿者には降伏兵と同じ罰を科した。
- 軍功に応じて爵位を与え、私闘は軽重に応じて厳罰に処した。
- 農業と織布に励み、粟や帛を多く納める者は租税・徭役を免除した。
- 商工などの末業に従い、怠惰のため貧しくなった者は、家族ごと没収して奴婢化した。
- 宗室も軍功がなければ特権的地位を認めず、尊卑・爵秩・田宅・衣服まで等級差を明確にした。功ある者は栄え、無功の富者は名誉を得られないとした。
徙木立信
- 法令公布にあたり、衛鞅は民が信用しないことを恐れた。
- そこで都の南門に三丈の木を立て、これを北門へ運ぶ者に十金を与えると告げた。民は怪しんで動かなかった。
- さらに五十金に引き上げると、一人が運んだので、ただちに五十金を与えた。こうして新法が欺きでないことを示した。
太子犯法と法の徹底
- 新法施行後一年ほどで、都には不便を訴える者が千を数えた。
- そこで太子が法を犯すと、衛鞅は法が行われないのは上が犯すからだとしつつ、太子本人は国の後継者ゆえに刑を避け、傅の公子虔を処罰し、師の公孫賈に黥刑を加えた。
- 翌日から秦人は皆こぞって法令に従うようになった。
- 以後十年のあいだに、道には落とし物もなく、山には盗賊もなく、民は公戦には勇敢で私闘には臆病となり、郷里はよく治まった。
- かつて新法を非難した者のうち、のちに今度は便利だと言い出した者たちについて、衛鞅はこれもまた法を乱す者だとして辺境に移住させ、以後だれも法を議論しなくなった。
司馬光の論評
- 司馬光は、国を保つのは民であり、民を保つのは信であるとして、君主にとって信義は最大の宝だと論じる。
- 齊桓公が曹沫との盟約を破らず、晋文公が原を攻めた際に約束の日数を守り、魏文侯が虞人との約束を捨てなかった例を引く。
- 商君は刻薄ではあったが、戦国の詐力が横行する時代でも、なお民を養うために「信」を捨てなかった点は見落としてはならず、まして天下を治める者はなおさら信を重んじるべきだとした。
韓の君主交代