三晋の大夫が諸侯に列せられる
- 周の威烈王は、この年はじめて晋の大夫である魏斯・趙籍・韓虔を諸侯として正式に認めた。これにより、晋は名目上も三家に分かれ、周王朝が家臣による主君の国土分割を追認した形となった。
- 司馬光はこの出来事を『通鑑』の起点に置き、礼・名分の崩壊こそが戦国の乱世を招いたと論じる。天子は本来、君臣・上下の秩序を守るべき立場であり、これを許したことが天下の規範を失わせたとする。
- あわせて、智伯の滅亡を例に、才が徳を上回る者の危うさも論じる。才覚だけが勝って仁徳を欠く者は、国家と家を危うくする小人になりやすいと評している。
智氏の内紛と智果の離脱
- 以前、智宣子が後継に智瑶(のちの智伯)を立てようとしたとき、智果は反対した。智瑶には容貌・武芸・技芸・弁舌・剛毅の長所があるが、不仁という致命的な欠点があり、一族を滅ぼすと見たからである。
- 智宣子が聞き入れなかったため、智果は智氏から分かれて輔氏を称した。
趙無恤が後継となる
- 趙簡子には長子の伯魯と年少の無恤がいた。簡子は二人に訓戒を書き記した竹簡を与え、数年後に確かめたところ、伯魯は文も竹簡も失っていたが、無恤は暗記し、簡も袖にしまっていた。
- 簡子は無恤を賢いと見て後継に定めた。
- また、尹鐸を晋陽に赴任させた際、住民から利益を搾る地にするか、防備の拠点にするかを問われると、簡子は後者を選ばせた。尹鐸は戸数を軽減して民を休ませたため、晋陽の人々は趙氏に厚く帰服するようになった。
智伯の専横と韓・魏への圧迫
- 智襄子(智伯)が晋政を握ると、韓康子・魏桓子と宴を開いた席で韓氏の家臣段規を侮辱した。智国は、些細な軽侮でも怨みを生み、やがて大難になると諫めたが、智伯は聞かなかった。
- ついで智伯は韓康子に土地を要求した。韓は段規の進言に従い、ひとまず差し出して難を避け、情勢の変化を待つことにした。
- 魏桓子にも土地を求めると、家臣任章は、ここで与えれば智伯はいよいよ驕り、韓魏はかえって互いに近づいて備えられると説いた。魏も万家の邑を与えた。
- さらに智伯は趙襄子に蔡皋狼の地を要求したが、趙はこれを拒否した。
晋陽攻防戦
- 智伯は韓・魏の軍を率いて趙氏を攻めた。趙襄子は逃れる先を相談し、長子は民が疲弊して築いた城であり、邯鄲は民の膏血で満たした倉庫であるとして退け、先君ゆかりで尹鐸が民に寛政を行った晋陽へ向かった。
- 三家の連合軍は晋陽を包囲し、水を引き入れて城を水攻めにした。水は城壁の三段を残す高さに達し、竈は沈み、蛙が生まれるほどだったが、城中に離反の気配はなかった。
- 智伯が水攻めを見て「水で国を亡ぼせる」と得意になると、魏桓子と韓康子は、自分たちの都も同じように水攻めされうると悟り、智氏への恐れを深めた。
韓・魏の離反と智伯の滅亡
- 絺疵は、趙が滅べば次は韓魏の番であり、二家の顔色には喜びがなく憂いがある以上、必ず反くと智伯に告げた。だが智伯はこれも軽視した。絺疵は危険を察して斉への使者として去った。
- 趙襄子の臣張孟談は密かに韓・魏へ通じ、「唇が滅べば歯が寒い」と説いて同盟をまとめた。二家は決起の日を約した。
- 趙は夜のうちに堤の役人を殺して堤防を切り、洪水を智伯軍へ流し込んだ。混乱した智伯軍に対し、韓・魏が両翼から攻撃し、趙も正面から突撃した。
- 智伯は敗死し、智氏はほぼ滅族した。ただし別族していた輔果だけは生き残った。
豫讓の復讐
- 趙襄子は智伯の首を漆で固め、酒器として用いた。
- 智伯の臣・豫讓は仇を討とうとし、まずは受刑者を装って趙襄子の宮中に入り、便所の壁を塗る役に紛れ込んで匕首を潜ませた。しかし発覚した。
- 襄子は、主君のために報復しようとする義気は認めるとして、いったん赦した。
- 豫讓はさらに体に漆を塗って癩病人のように見せ、炭を飲んで声を潰し、乞食となって機会をうかがった。友人には、臣として身を委ねた以上、後世の二心ある臣を恥じさせるためにも徹底すると語った。
- ついに橋の下で待ち伏せしたが、馬が驚いたことで発覚し、趙襄子に殺された。
趙・魏・韓の系譜整理
- 趙襄子は伯魯を後継にしなかったことを気に病み、その子を代に封じた。のちに襄子の弟桓子がその子の浣を追って自立したが、まもなく死去し、趙人は桓子の子を殺して浣を迎え、これを献子とした。献子の子が籍で、のちの烈侯である。
- 魏斯は魏桓子の孫で、のちの文侯である。
- 韓康子の孫の韓虔が、のちの景侯である。
魏文侯の政治と人材登用
- 魏文侯は卜子夏・田子方を師とし、段干木の家の前を通るときはいつも車中で身をかがめて敬意を示した。四方の賢士がこれを聞いて魏に集まった。
- 文侯は狩猟の約束を守るため、雨の中でも虞人のもとへ赴いて自ら中止を伝えた。
- 韓が魏に援軍を求めて趙を攻めようとしたときは断り、逆に趙が韓を攻める援軍を求めたときも断った。後に両国はこれが自分たちを和解させるためだったと知り、そろって魏を朝した。
- 文侯は楽羊を用いて中山を滅ぼし、その地を子の撃に封じた。これをめぐって任座は、弟でなく子に与えるのは仁ではないと直言したが、翟璜は、そうした直臣を持つ君だからこそ仁君だと評した。文侯は任座を呼び戻し、厚遇した。
田子方・李克・翟璜との議論
- 文侯が田子方と飲酒していた際、鐘の音の不調和を指摘すると、田子方は「音を聞き分けるよりも官人を見極めることが大切だ」と諫めた。
- 世子の撃が田子方に無礼をなじると、田子方は、貧賤の士は用いられなければ去るだけであり、富貴な者の方こそ驕れば国や家を失うと説いた。撃は謝罪した。
- 文侯が李克に宰相人事を問うと、李克はまず距離を置いたうえで、交友・登用・困窮時の振る舞いなど五つの観点で人物を見定めるべきだと答えた。
- 翟璜は、自分が呉起・西門豹・楽羊・屈侯鮒らを推薦した功を挙げて宰相になれぬのかと不満を漏らしたが、李克は、魏成が高禄を外へ分けて賢者を招き、君が彼らを師とするまでに至らせたことを挙げ、魏成こそ宰相にふさわしいと説いた。翟璜はこれに服し、弟子となることを願った。
呉起の経歴と魏での活躍
- 呉起は衛の人で、かつて魯に仕えた。魯が斉と戦うとき、妻が斉出身であるため疑われ、将となるために妻を殺した。さらに、母の喪に奔らなかったことで曾参からも絶縁された。
- それでも李克は、兵法の才では司馬穰苴にも劣らないと評価し、魏文侯はこれを将軍に任じた。呉起は秦と戦って五城を奪った。
- 呉起は兵と苦楽をともにし、自ら糧を担ぎ、病兵の膿を吸うことさえした。兵士の母は、夫もかつて同じように呉起に遇され、そのまま戦死したことを思い出して、子もまた死地に赴くと泣いた。
- その後、魏では公叔が呉起を恐れ、公主との婚姻話を利用して追い落とそうとした。呉起がこれを辞退すると、武侯は疑いを抱いた。呉起は誅殺を恐れて楚へ逃れた。
燕・楚・周の王位継承
- 燕の湣公が死に、子の僖公が立った。
- 周の威烈王が崩じ、子の安王驕が即位した。
- 楚では盗賊が声王を殺し、国人はその子を立てて悼王とした。