資治通鑑周紀一 安王 十五年 前388年

秦が蜀を攻めて南鄭を取る

  • 秦が蜀を攻め、南鄭を奪った。

魏文侯の死と武侯の即位

  • 魏文侯が死に、太子の撃が立った。これが武侯である。

呉起が武侯に徳治を説く

  • 武侯が西河を舟で下り、その山河の険しさを国の宝だと語ると、呉起は、国の安泰は険阻ではなく徳にあると諫めた。
  • 三苗・夏桀・商紂はいずれも地勢の利を持ちながら、徳を失って滅んだ。もし君主に徳がなければ、舟の中の者すら皆敵国になりうる、と呉起は述べ、武侯はこれをよしとした。

魏で宰相をめぐる争い、呉起の出奔

  • 魏では田文が宰相となった。呉起は自らの軍功・治績・国防の功を挙げ、自分が上位であるのになぜ田文が上に立つのかと問うた。
  • 田文は、主君が若く国が不安定なとき、大臣がまだ服しておらず、民も心服していない状況を支える役は誰に任せるべきかと問い返した。呉起は長く黙したのち、それは田文だと認めた。
  • その後、公叔が尚公主となって呉起を憎み、計略で魏武侯に疑いを抱かせた。呉起は誅罰を恐れて楚へ奔った。

呉起、楚で改革を始める

  • 楚の悼王はかねて呉起の賢名を聞いており、到着すると宰相に任じた。
  • 呉起は法令を明確にし、不要な官職を削減し、疎遠な公族の特権を廃して、その財力を軍事に振り向けた。
  • 遊説家の空論を退け、南では百越を平らげ、北では三晋を押し返し、西では秦を討った。諸侯は楚の強盛を恐れたが、楚の貴戚・大臣たちは呉起を深く怨んだ。

秦・趙・韓の君主交代

  • 秦の恵公が死に、子の出公が立った。
  • 趙の武侯が死に、国人は烈侯の太子章を復位させた。これが敬侯である。
  • 韓の烈侯が死に、子の文侯が立った。