戰國策中山策(中山)

魏文侯の中山併呑計画と常莊談の献策

  • 魏文侯(魏桓子の孫)が中山を滅ぼそうとした。常莊談は趙襄子に、「魏が中山を併呑すれば次は必ず趙も併呑される。魏の公子傾を中山君の正妻として迎え、中山に封じさせればよい。そうすれば中山は魏の女婿の国として存続できる」と献策した。

犀首の五国称王と張登の中山救済策

  • 犀首は齊・趙・魏・燕・中山の五国を王として立てたが、中山は最後に立てられた。齊は趙・魏に「小国の中山と並んで王を称するのは恥だ、共に伐って王号を廃そう」と持ちかけた。中山は恐れ、張登を齊の田嬰のもとへ遣った。
  • 張登は田嬰に「中山を伐てば、中山は恐れて趙・魏に付き従うだけで、それは齊が趙・魏のために羊を追って食わせてやるに等しく齊の利にならない。むしろ密かに中山の王号を認め会盟すれば、中山は喜んで趙・魏と絶交し、怒った趙・魏が中山を攻める。窮した中山は自ら王号を捨てて齊に付くだろう」と説いた。田嬰はこれを容れたが、張丑は「五国が同じ欲を持つ以上憎み合うのは当然で、齊が中山に恩を売れば他の四国の反発を招く」と反対した。
  • 田嬰は張丑の言を聞かず中山の称王を認めた。張登は続けて趙・魏に「齊は中山と会って王号を認め、その兵を利用しようとしている、いっそ趙・魏が先に中山の王号を認めてしまえ」と説き、趙・魏はこれに従った。結果、中山は齊と絶交し趙・魏に付いた。

齊の圧力と藍諸君・張登の対応

  • 中山が燕・趙とともに王を称した際、齊だけは関を閉ざして使者を通さず、「万乗の齊と千乗の中山が名を並べるのはおかしい」として、平邑を燕・趙に割いて中山攻撃の兵を出させようとした。中山の重臣藍諸君はこれを憂え、張登に相談した。
  • 張登は「齊王に重臣を装わせ、自分が齊王に成り代わって説く体で藍諸君に献策を試させたい」と述べ、次の策を授けた。齊が閉関する真意は中山の王号廃止にあるが、地を割いて燕・趙に贈り兵を出させれば、齊自身が強敵を作り火中の栗を拾う立場になる。むしろ齊に「中山君が来朝すれば力添えする」と伝えさせ、中山が齊に赴けば燕・趙は怒って中山と絶交し、中山は孤立する。
  • そこで別の一手として、齊のこの申し出をあえて燕・趙に伝えつつ齊へは赴かない、とすれば、燕・趙は「齊は平邑を割いてまで我らを中山から引き離そうとしているだけだ」と悟り、逆に中山との結束を固める。藍諸君はこの策を用い、果たして燕・趙は中山の王号を支持し続けた。

司馬憙の三度の相位と陰姫立后

  • 司馬憙は趙の力を借りて中山の相位を求めた。中山君の御者公孫宏はこれを非難したが、後に趙からの要請どおり司馬憙は相となった(三度相となる)。中山君の寵姫陰簡を巡る政争でも、田簡の進言により司馬憙は難を免れた。
  • 陰姫が江姫と后位を争った際、司馬憙は陰姫に「事が成れば領地と民を得るが、成らねば身も危うい」と持ちかけ、中山王には「弱趙強中山」の策と称して趙を視察に赴いた。趙王には「趙一の美女と聞くが、実際に見た中山の陰姫にこそ及ばない、まさに帝王の后たる容姿」と語り、趙王の物欲を煽った。
  • 帰国した司馬憙は中山王に「趙王は仁義よりも声色を好む危険な人物で、陰姫を所望するに違いない」と告げ、「王自ら陰姫を后に立てれば、他国は人の后を求める非礼を犯せず、趙も手を出せなくなる」と勧めた。中山王は陰姫を后に立て、趙王は結局何も言えなかった。

主父と李疵の中山観察

  • 主父(趙武霊王)が中山攻めを検討し、李疵に視察させた。李疵は「攻めてよい、中山君は貧しい里巷の士70家にまで礼を尽くしている」と復命した。主父が「それは賢君ではないか」と問うと、李疵は「士を重んじれば民は名声を求めて本業(農耕)を疎かにし、賢者を重んじれば耕作者は怠け戦士は弱くなる。これでは滅びぬはずがない」と答えた。

羊羹の恨みと一飡の恩

  • 中山君が都の士大夫を饗した際、羊羹が司馬子期に行き渡らず、怒った子期は楚へ走り楚王に中山攻めを説いた。中山君は亡命することとなったが、その際二人の男が戈を持って従った。彼らは「かつて父が飢え死にしかけたとき、君が壺の飯を下賜してくれた。父は死に際に『中山に事あらば必ず命を捧げよ』と言い残した」と語った。
  • 中山君は嘆じて、「施しの多寡にかかわらず窮地での恩は深く記憶され、怨みも深浅にかかわらず心を傷つければ重くなる。羊羹一杯行き渡らぬだけで国を失い、一壺の飯で二人の士を得た」と述べた。

楽羊の食子

  • 楽羊が魏の将として中山を攻めた際、その子が中山にいた。中山君は子を煮て羹とし楽羊に送った。楽羊はこれを食し、忠誠を示したが、後世この故事は父を害してまで法(軍務)を貫いた例として語られる。

昭王の趙再征をめぐる武安君(白起)の諫言

  • 秦の昭王が長平の勝利後、民を休ませ兵を整えて再び趙を攻めようとした際、武安君(白起)は「趙は長平以来、君臣ともに憂懼し、卑辞重幣を尽くして燕・魏と結び斉・楚とも通じ、内実を固め外交も成っている。今は趙を伐つべきときではない」と諫めた。
  • 昭王は聞かず、王陵に五校の兵を率いさせたが敗れた。武安君を将に立てようとしたが病と称して応じず、応侯が「かつて楚を寡兵で破った功」を引いて出陣を促した。武安君は「あの時は楚が政治を怠り将兵が離反していたが、今の趙は勾践が会稽で臥薪嘗胆したのと同じく君臣一体、士気も高い。今攻めても勝ち目はなく、諸侯の介入を招くだけだ」と応じなかった。
  • 応侯は恥じて退き、昭王は改めて王齕を将として邯鄲を包囲したが8、9か月経っても落とせず、趙の反撃で秦軍は苦戦した。武安君は「私の言った通りだ」と述べたため昭王は怒り、無理に出陣を命じたが、武安君は「たとえ罪に問われようとも、王は趙攻めをやめ民を養い、諸侯の変事を見て動くべきだ。一臣に勝つために天下に対して屈するのは本末転倒である」と最後まで拒み、応じなかった。