田嬰(靖郭君)をめぐる楚との駆け引き
- 楚威王が徐州で斉に勝ち、田嬰(靖郭君)を追放させようとした際、張丑は「田嬰が用いない盼子こそ功臣であり、田嬰を逐えば盼子が再び兵を掌握して楚に不利になる」と説き、追放を思いとどまらせた。
- 斉が田嬰を薛に封じようとすると楚王が激怒し斉を攻めようとしたが、公孫閈は楚王に「魯宋が斉に仕え斉より小さいのに構わないのは、斉が大きいから」と述べ、田嬰が薛に封じられ斉が分割・弱体化することはむしろ楚の利益だと説き、楚王を思いとどまらせた。
靖郭君と客の諫言
- 靖郭君が薛に城を築こうとした際、門客が「大魚も水を失えば螻蟻の餌食となる。斉こそ君の水であり、薛の城をどれほど高くしても意味がない」と諫め、靖郭君は築城を取りやめた。
齊貌辨の忠義
- 靖郭君は評判の悪い齊貌辨を厚遇し続けた。威王没後、宣王と靖郭君の関係が悪化し靖郭君は薛に退いたが、齊貌辨は自ら宣王に会いに行き、かつて靖郭君が太子(宣王)廃立や薛と楚の領地交換の勧めを拒み通した恩義を明かした。宣王は感激して靖郭君を呼び戻し、相に任じた。
邯鄲の難と桂陵の戦い
- 趙の邯鄲が魏に攻められ斉に救援を求めた際、段干綸は「すぐ邯鄲の郊外に出兵すれば趙も魏も傷つかず斉に利がない、むしろ南の襄陵を攻めて魏を疲弊させ、邯鄲陥落後に漁夫の利を得るべき」と説いた。斉はこれに従い、桂陵で魏軍を大破した。
南梁の難と馬陵の戦い
- 韓が魏に攻められ斉に救援を求めた際、田臣思は「韓魏が疲弊しないうちに救援すれば魏の矛先を斉が引き受けるだけ、密かに韓を励まし疲弊させてから出兵すべき」と説いた。斉軍は馬陵で魏軍を大破し、魏将龐涓を討ち太子申を虜とし、韓魏の君主は斉に服属した。
鄒忌と田忌の不和
- 成侯鄒忌は将軍田忌と不仲だった。公孫閈は鄒忌に「田忌が魏を破れば功は君の献策となり、破れなければ田忌が罪を得る」と勧めさせ、田忌の戦勝後には偽の占いを仕組んで田忌に謀反の疑いをかけさせた。田忌はこれにより出奔した。
孫臏の奇策
- 田忌は馬陵で魏太子申を虜とし龐涓を討った将であった。軍師・孫臏(孫子)は田忌に、兵を返さず斉都に迫って成侯鄒忌を追い落とす大事を成すよう説いたが、田忌はこれを用いず、結局斉に入れなかった。
田忌の亡命と鄒忌の対応
- 田忌が楚へ亡命すると、鄒忌は彼が楚の力を借りて斉に復権することを恐れた。杜赫は楚王に、田忌を江南に封じて斉に戻らせない形にすれば、鄒忌も楚も共に安心できると説き、楚はこれに従った。
- 鄒忌はまた、人望を集める晏首を警戒し、宣王に「孝行者は多くの子を持つより一人の親孝行が尊い」との喩えで、晏首が多くの人材を登用しすぎることを牽制するよう進言した。
鄒忌、徐公と美を競う
- 鄒忌は妻・妾・客がそれぞれ理由あって自分を城北の徐公より美しいと言ったことに気づき、これを「人は私情・恐れ・下心から真実を語らない」教訓として威王に説いた。威王は臣下の直言を奨励する布令を出し、当初は諫言が門前市をなすほど集まったが、やがて改善が進み諫言も尽きた。この威信により燕趙韓魏が斉に朝貢するようになった。
章子の忠と秦への対処
- 秦が韓魏の道を借りて斉を攻めた際、将軍・章子が秦軍に紛れる旗印を用いたため讒言を受けたが、威王は動じず信任を続け、章子は大勝を収めて秦を謝罪させた。
- 楚が斉を攻めようとし魯が楚に加担しかけた際、張丏は魯君に「二国のいずれが勝つか分からぬ以上、中立を保ち疲弊した勝者を後で討つ方が得策」と説き、魯を斉から離れさせず中立に留めた。
陳軫、三晋との連携を説く
- 秦が魏を攻めた際、陳軫は斉王に、山東諸国が互いに疲弊し合えば結局強秦を利するだけだと説き、斉を三晋と結ばせることに成功した。
蘇秦の合従説
- 蘇秦は斉宣王に、斉の地の利・富強・人口の多さを説き、秦を恐れて事える必要はないと合従策を勧め、宣王はこれに従った。
張儀の連横説
- 張儀は斉王に、魯が斉に三度勝ちながら結局滅んだ例(大国と小国の力の差は覆せない)を引き、秦との連携を勧めた。斉王はこれに従い、秦へ魚塩の地を献じて事えることとした。