藍田の戦いと薛公の計略
- 秦が楚の漢中を取り藍田で楚軍を大破すると、韓魏が乗じて鄧まで攻め入り楚王は退いた。三国(韓魏斉)がさらに楚を攻めようとしたが、秦の救援を恐れた。ある者は薛公に、使者を楚へ送り「三国が去れば楚は秦と結ぶだろう」と匂わせれば、秦は楚が本気で自分を頼っていないと見て救援しないと説き、薛公はこの策を用いて三国に楚攻めで功を挙げさせた。
齊女をめぐる駆け引き
- 薛公(田文)が魏に入り斉出身の夫人を離縁させた一件で、韓春は秦王に、その齊女を秦王の妻に迎え、秦斉が結んで魏を脅かせば上党を得られると説いたが、秦王はこの計を用いなかった。
河東割譲の是非
- 斉韓魏の三国が函谷関に迫った際、秦王は樓緩に河東を割いて講和すべきか問うた。公子池は「割けば惜しみ、割かねば都咸陽が危うい、いずれにせよ悔いは残るが、三城を惜しんで都を危うくするより講和すべき」と説き、秦王はこれに従い三城を与えて兵を退けさせた。
中期の諫言
- 秦昭王が「韓魏やその将(如耳・魏齊)は往時の孟嘗君・芒卯に及ばず、秦を脅かせまい」と楽観したのに対し、中期(中旗)は琴を推しやり、智伯が趙を滅ぼす寸前で韓魏の裏切りに遭い自ら滅んだ故事を引き、油断を戒めた。
陘山の戦いと上洛の地
- 楚魏が陘山で戦い、魏は秦に上洛を約して秦の援楚を断たせ、勝利したが賂を渋った。営淺は秦王に、楚に「魏が背いた」と告げさせて楚と結ぶ構えを見せれば、魏は秦を恐れて結局上洛を差し出すと説き、その通りとなった。
景鯉をめぐる周最の弁
- 楚の使者・景鯉が秦にいた際、秦魏の会盟に同席させられたため楚王が怒ったが、周最は楚王に、これは秦が景鯉を厚遇した証だと説いてなだめた。楚王が景鯉を秦への人質同然に留め置かれることを恐れると、景鯉自身が秦王に「私を留めれば天下は楚が秦に見限られたと見て、斉魏も秦を軽んじる」と説き、秦王は景鯉を帰国させた。
頓弱の秦王批判と対六国策
- 秦王(後の始皇帝)が頓弱を召した際、頓弱は拝礼を拒みつつ「名ありて実なき者・実ありて名なき者・名も実もなき者」の喩えを引き、秦王が母(太后)への孝を欠いていることを暗に批判した。秦王は怒ったが、頓弱はさらに「韓は天下の咽喉、魏は胸腹」と説き、黄金を用いて韓魏の重臣を秦に取り込み、燕趙へも遊説して趙将李牧を除き、斉王を秦へ入朝させれば四国が従うと献策した。
黄歇(春申君)、秦昭王を説く
- 楚頃襄王の代、秦の白起が西陵・鄢郢を落とし先王の墓を焼き、楚は陳へ都を移し弱体化していた。黄歇は秦へ遣わされ昭王に、秦がこのまま楚を攻めれば「両虎の争いに駑犬が利する」だけだと説き、秦の輝かしい戦果(燕を服属させ魏を圧迫した実績)を称えつつ、智伯や呉王夫差が目先の利を貪って後に滅んだ故事を引いて、これ以上楚を攻め滅ぼすことの危うさを説いた。
- 黄歇はさらに、秦が韓魏を頼って楚を攻めれば、韓魏がかえって漁夫の利を得て強大化し、いずれ秦に刃向かうと警告し、楚と結んで韓魏を制する方が得策だと説いた。この説得により秦は楚への攻勢を控えた。
仁義によらぬ強国の危うさ(六国のための秦王への諫言)
- ある論者は秦王(始皇)に「土地が広く人民が多いだけでは安泰たりえない、桀紂もまた広大な国を有しながら滅んだ」と説いた。
- かつて趙が斉魏を退け強勢を誇った時期も、諸侯が離反し天下に恨まれて自滅したこと、斉の威王が魏や趙燕との抗争を経て一時強勢を誇ったが、結局天下に警戒され孤立した経緯を引き、力による覇道の限界と、仁義に基づく統治の必要を説いた。