衛鞅の入秦と最期
- 衛鞅は魏の相・公叔痤の推挙も惠王に用いられず、秦に亡命して孝公に仕え、商の地に封ぜられて商君と号した。法を厳しく行い、公平で私情を挟まず、太子が法を犯すとその傅を処罰するほど徹底し、一年余りで道に物を拾う者なく民は妄りに物を取らなくなるほど秩序が整い、兵も大いに強まったが、刻薄で恩情に乏しいとも評された。
- 孝公の死後、恵王が立つと、商君は権勢を疑われて讒言を受け、秦を逃れようとしたが自らの厳法ゆえに宿を得られず、結局車裂きの刑に処された。魏も商君のかつての詐術を恨み受け入れなかった。
蘇秦、秦王を説くも用いられず
- 蘇秦は秦惠王に、地の利・富強・軍備を説き、諸侯を併呑し天下に号令できると勧めたが、恵王は「毛羽の整わぬ者はまだ高く飛べぬ」と婉曲に断った。
- 蘇秦はなお、神農・黄帝・堯舜禹湯文武・斉桓公など古来の聖王も皆戦によって天下を治めたと説き、文辞のみが盛んで兵が用いられぬ世の弊害を論じ、覇業には武力が不可欠だと重ねて説いたが、十度上書しても容れられなかった。
- 資金も貂裘も尽きて秦を去り、みすぼらしい姿で洛陽の家に帰ると、妻も嫂も出迎えず父母も口をきかなかった。蘇秦はこれを恥じ、太公望の兵法書を夜通し読み込み、眠気を払うため錐で股を刺しながら学び続けた。
- 一年後、その説は完成し、趙王を説いて武安君に封じられ、六国合従の長として秦の勢いを抑えた。栄達して洛陽を再訪すると、父母・嫂は態度を一変させて畏れ敬い、以前は素っ気なかった嫂が「季子(蘇秦)の地位が高く金が多いから」と答えたのに対し、蘇秦は「貧しい時は親族にも軽んじられ、富貴になれば皆が畏れる、人の世とはこういうものか」と嘆じた。
秦惠王と寒泉子
- 秦恵王は寒泉子に、蘇秦が諸侯を欺いて連横に対抗させていることへの怒りを述べ、武安君・白起を遣わして意趣を伝えようとしたが、寒泉子は「攻城には武力より外交の使者がよい」と説き、代わりに客卿・張儀を推挙させた。
張儀、秦王を説く(連横策)
- 張儀は秦王に、天下の情勢を分析し、燕魏が弱く趙が斉韓と合従して秦に対抗するのは「乱をもって治を攻め、邪をもって正を攻める」に等しく必ず敗れると論じた。
- 秦の号令・賞罰・地形の優位が天下随一であることを説き、かつて斉が一時は六国最強でありながら一戦の敗北で滅びかけたように、勝敗が国の存亡を決すると強調した。
- さらに、秦が楚(荆)を大破し郢を取った際、また魏を華山下・大梁郊外で屈服させた際、また韓魏の上党・長平で趙を破った際、それぞれ徹底して攻め滅ぼせば覇業を成せたのに、秦は三度とも兵を退いて和議に応じ、好機を逃したと三つの実例を挙げて批判した。
- 智伯が晋陽で趙襄子を水攻めにしながら、張孟談の反間策で韓魏に寝返られ滅んだ例、逆に周の武王が慎重に機をうかがい紂を討った例を引き、秦も今こそ慎重かつ徹底して天下を取るべきだと説いた。最後に「もし秦一挙で天下を従えられなければ、私を処刑してよい」とまで述べて説き切った。
甘茂・司馬錯・張儀の議
- 張儀は魏を助けるため秦兵を借りようとしたが、左成は甘茂に「兵を返さねば張儀は誅を恐れて秦に背けず、返せば魏で名を上げても秦には背かない」と分析した。
- 司馬錯と張儀が秦恵王の前で論争。張儀は韓を攻めて周の九鼎を得て天子を挟んで天下に号令すべきと説き、司馬錯は「まず国を富ませ民を豊かにし徳を広めるのが王者の道であり、弱く乱れた蜀を得れば実利があり悪名も立たない」と反論した。恵王は司馬錯の策を採り、蜀を伐って十月で平定し、秦は大いに富強となった。
張儀と樗里疾・陳軫
- 張儀は樗里疾が楚で重んじられ秦の相にと請われたことを妬み、秦王に讒言してこれを退けさせた。
- 張儀は漢中を楚に与えようとしたが、甘茂は「土地が大きすぎれば禍の種になる、天下に変事があれば取り返せばよい」と諫めた。
- 張儀は魏を援け斉と戦わせて、魏に西河の外を秦へ献上させることに成功した。
- 田莘は陳軫のため秦恵王に、晋の献公が虢・虞を諫臣(舟之僑・宮之奇)を賄賂で退けさせてから滅ぼした故事を引き、張儀や横門君の讒言に惑わされぬよう説いた。
- 張儀は陳軫が秦楚を行き来し利敵していると讒言したが、陳軫は「吳人思郷の吟」「両虎の争いを待って一挙に仕留める故事」を引いて弁明し、王は讒言を退けた。
- 別の場面でも張儀が陳軫を「楚へ去ろうとしている」と讒言し、王が本人に問い質すと、陳軫は「忠ならぬ臣は主君にも疎まれる、私が秦を去るなら忠でないからだと世人は思うだろう。子胥・孝己の故事のように、忠実な者ほど疑われて棄てられることがある」と述べ、たとえ楚へ行くとしても不忠のためではないと弁じ、王はこれに納得し厚遇した。