戰國策東周策(東周)

秦、九鼎を求める

  • 秦が周に兵を進めて九鼎の引き渡しを迫った。周君は顔率を斉に遣わし、秦の無道を訴えさせる。斉王は喜び、陳臣思に兵五万を率いさせて周を救わせ、秦は兵を退いた。
  • 斉が救援の礼として九鼎を求めてくると、周君はまた憂えた。顔率は再び斉へ行き、鼎を運ぶ道が梁からも楚からも塞がっていて通せないこと、九鼎を運ぶには膨大な人員・器材が要ることを説き、斉王をあきらめさせた。

秦の宜陽攻め

  • 秦が宜陽を攻めた際、周君は趙累に見通しを尋ねる。趙累は、秦将甘茂の面子がかかっており必ず陥落すると予測した。
  • 趙累は周君に、楚将景翠へ「勝っても加増はないが、負ければ死ぬのみ。むしろ秦が疲弊した隙に兵を進めよ」と説かせる策を献じた。結果、秦は宜陽陥落後に景翠へ財宝を贈って懐柔し、韓もこれに倣ったため、景翠は城も財も得て、周に恩義を感じた。

東西周の争いと諸国の駆け引き

  • 東周と西周が戦い、韓が西周を救おうとした際、ある人が韓王に「兵を出さず様子を見れば西周の宝器はやがて尽きる」と説いた。
  • 東西周が楚と結ぼうと争った際、韓齊明は東周君に、西周の宝物献上を急がせなければ楚韓は西周を攻めるだろうから、東周がその宝を先に手に入れて恩を売るべきだと説いた。
  • 東周が稲作のため水を求めたが西周が堰き止めた。蘇子が西周君を説き、まず水を下して東周に稲作をさせ、収穫時に水を止めれば東周の民は西周の命に従わざるを得なくなると謀り、西周君はこれに従った。蘇子は両国から謝礼の金を得た。

昭獻の一件

  • 昭獻が陽翟にいた際、周君が相国を派遣させようとしたが相国は嫌がった。蘇厲は、楚魏の会見の先例を引き、昭獻は君主でないのだから相国自ら赴く必要はないと説き、周君はこれをやめさせた。

秦の仮道要求

  • 秦が韓を討つため周に道を借りようとした。史黶は、韓には「これで秦の周への疑いが晴れる」と言わせ、秦には「韓が周に地を与えようとしているのは周を疑わせるためだ」と告げさせ、周が両国どちらからも咎められない策を献じた。

楚の雍氏攻めと周

  • 楚が雍氏を攻め、周が秦韓に糧秣を送ったため楚王が怒った。ある者が楚王に、周を怒らせれば他国と結ばれてかえって不利になると説き、速やかに怒りを解くよう勧めた。

周最をめぐる駆け引き

  • 周最は呂禮に、斉を秦攻めに用いさせ、自らは魏に留まって斉秦の連携を制する策を説いた。
  • 呂倉が周君に取り入られていることを恐れた工師藉は、周君に「客(周最)は弁士だが人を謗る性癖がある」と讒言させようとした。周君は宋君・子罕・斉桓公の故事を引いて、臣下の誹謗を許すべきでないと諭され、結局工師藉を退けることはできなかった。
  • 温の人が周に来たが「客」と呼ばれることを拒み、「天下は王土、王臣ならぬ者はない」という詩を引いて自らを主人と称した。役人が問いただした末、これを釈放した。
  • 周最のために金投へ、秦斉韓魏の合従連衡の情勢と対処策が説かれた(斉を助けて韓魏の上党を得る方が得策とする論など)。

齊秦をめぐる周最の処遇

  • 大梁造(商鞅の官職名)は覇王の名を遂げるため両周の弁知の士を頼るべきだと説いた。周最の斉における処遇(薛公との関係、祝弗の登用問題)をめぐり、複数の弁士が周・斉・秦・趙の利害得失を説いた。
  • 蘇厲は周最のために蘇秦へ、また仇赫・宋・魏王などへ、それぞれ秦趙斉の合従策の利害を説いた。

趙が周の祭地を取った一件

  • 趙が周の祭祀用の土地を奪った。周君が鄭朝に相談すると、鄭朝は三十金で買収する策を進言し成功した。趙の太卜が王の病を占い「祭地の祟り」と告げたため、趙はその地を周に返した。

杜赫の献策

  • 杜赫は景翠を周で重んじさせようとし、周君に「鳥のいない所や多すぎる所ではなく、ほどよく鳥のいる所に網を張るべき」との比喩で、有力者ばかりに施すのではなく、いま困窮している士に施すべきだと説いた。

東周太子擁立の一件

  • 東周の太子が死に、庶子五人が相争った。司馬翦は楚王に公子咎を太子に立てるよう働きかけさせ、左成の献策により相国らを動かして公子咎が太子となった。

三国が秦を圧迫した際の周の外交

  • 三国(斉・韓・魏)が秦を攻めた際、周は相を秦へ遣わす使いを故意に留めさせ、これによって秦にも斉にも重んじられる立場を保った。

昌他の一件

  • 昌他が西周から東周へ亡命し、西周の内情を漏らした。西周の馮且は、偽の密書と密告により、東周に昌他を間者と誤認させて誅殺させた。

昭翦と東周の不和

  • 昭翦と東周が不和になった際、ある人が「西周は東周を憎んでおり、賊を使って昭翦を陥れようとしている」と偽って告げ、事を収めさせようとした。昭翦はこれを疑い、東周の間者に警戒しつつ、結局東周と和解した。

嚴氏の賊と陽豎

  • 嚴氏が賊を働いた際、陽豎が同道していたため周に留められた。十四日後、車馬を与えて送り出したが、韓が周を責めた。周君は「賊とは知りつつ関与を疑い十四日留め置いたが、小国ゆえ韓の使者も来ず、やむなく送り出した」と説明して事を収めた。