三藩紀事本末清軍、南浙を平定する(王師平南浙)

清軍による江南・浙東地方の平定戦を描く。鎮江・常州・蘇州から杭州・嘉興・呉淞・嘉定(嘉興)・昆山・松江・金山衛・江陰・崇明へと次々に攻略が進み、各地で官吏・士人の凄惨な殉節が相次いだ。順治二年乙酉(1645年)5月から翌年3月にかけての約10ヶ月間。

年表(9件)

順治二年乙酉(1645年)五月(鎮江・常州・蘇州陥落)

  • 五月二十日、清軍が鎮江に至り、知府・推官・丹徒県令らが殉節し、巡撫の霍達は逃げた。
  • 清軍は常州・蘇州を攻略した。蘇州では在籍の徐汧、挙人の楊廷樞が娘とともに入水して死んだとされるが、野史では、廷樞は髪を残して芝塢に隠れ住み、丁亥年(1647)に捕らえられるまで生き延び、血で書いた遺書を子に残し、絶命詩十二章を賦した後、十二月に松陵の泗州橋で斬られたと伝える。
  • 太倉では諸生の王湛とその兄の王淳が挙兵して城を包囲したが敗れ、淳は入水、湛は陣中で死んだ。

順治二年乙酉(1645年)六月(杭州・嘉興の攻防)

  • 六月、清の貝勒は蘇州閶門に兵二千を残し、大軍は杭州に向かい嘉興を掠めて過ぎた。杭州にいた潞王常淓は撫按の勧めで降伏したが、銭塘知県の顧咸建、臨安知県の唐自彩は屈せず死んだ。
  • 嘉興の士紳・屠象美らが再び兵を集めて城を守ったが、半月で攻め破られ、在籍の吏部尚書徐石麒が死んだ。

順治二年乙酉(1645年)閏六月(呉淞占拠)

  • 閏六月八日、清軍が呉淞に入った。副総兵の呉志葵が反乱を企てていることを察知し、清の偏将が兵二千でこれを制圧した。

順治二年乙酉(1645年)七月(嘉興・昆山の屠城)

  • 七月四日、嘉興を屠り、在籍の通政使侯峒曾が死んだ。峒曾は籠城して抗戦したが大雨で城壁が崩れて陥落し、二子とともに入水した。進士黄淳耀は弟と縊死、挙人張錫眉は自殺、その妾は入水、教諭董用圓兄弟も入水するなど多くの士人が殉節した。
  • 七月七日、昆山を屠った。県丞閻茂才が降伏を図ったが県民に殺され、王佐才を主として貢生朱集璜、周室瑜、陶琰、陳大任らが挙兵して守ったものの、清軍が偽って詔勅を称して城門を開かせ、突入した。佐才は殺され、集璜、室瑜父子、陶琰、大任一家など多数が入水・自尽して殉節した。城を守って死んだ者、親や母の身代わりとなって死んだ者も多数記録されている。

順治二年乙酉(1645年)八月(松江・金山衛の陥落)

  • 八月三日、松江府を屠った。兵部職方主事の章簡、行人の李待問が殉節した。両広総督だった沈猶龍と義兵の蔡喬が城を守っていたが、清軍が黄蜚の援兵と偽って城門を開かせ、城中の内応もあって陥落した。猶龍は逃れ、蔡喬は海に入った。教諭睦明永、御史夏允彞、諸生戴弘、徐念祖一家など多数が自尽・入水した。允彞の兄夏之旭は自縊し、その子夏完淳は後に別件で処刑された。六日、黄蜚・呉志葵の水師を急襲して撃破し、蜚は入水、志葵は降伏を願ったが許されず殺された。
  • 二十日、金山衛を破り、守将の侯承祖と子の士祿が死んだ。清の総鎮李成棟は承祖に降伏を勧めたが応じず、妻子とも城を出さず堅守した。城が落ちると承祖父子は捕らえられ、長子士祿は罵り抗して射殺され、承祖も屈せず殺された。成棟は承祖を「江南第一の忠臣」と称え、末子だけを助命して父の遺体を葬らせた。

順治二年乙酉(1645年)八月(江陰屠城)

  • 江陰を破り屠った。六月、諸生の許用が城を守ることを唱えて数万が呼応し、陳明遇を主将、邵康公を将とし、旧典史の閻応元を招いて城を守らせた。清軍は攻めあぐね、八月二十一日にようやく祥符寺後の城壁から突入して陥落させた。用・明遇は一家で焼身自殺、応元は捕らえられ斬られた。教諭馮厚敦は自縊、その姉妹と妻も入水するなど城中の死者は数万に及んだ。貢生王毓祺と徐趨は城外で挙兵して呼応し、城陥落後も逃れて再挙を図ったが、翌年冬に敗れ、趨は処刑、毓祺も捕らえられて従容と死についた。

順治二年乙酉(1645年)十一月(崇明陥落)

  • 十一月十三日、崇明を破った。九月には成棟が海を渡って崇明を攻めたが失敗し引き返しており、この度ようやく攻略した。

順治二年乙酉(1645年)(浙東の殉節者たち)

  • 清軍の杭州攻略後、浙東諸県に招撫の使者が送られたが、応じずに死んだ者が多い。杭州の王道焜は入水、山陰の祁彪佳は池に投じ、劉宗周は断食して死に、行人陸培は自縊、海寧の祝淵は縊死した。会稽の諸生王毓蓍は劉宗周に先んじて柳橋河に身を投げ、他にも儒士潘集、周卜年、朱瑞、大学士高弘図など多くの人物が自尽・入水して殉節した。

順治二年乙酉(1645年)閏六月〜三年丙戌(1646年)三月(徽州・金声の挙兵)

  • 二年乙酉閏六月、左僉都御史の金声が徽州績溪で挙兵し、丘祖徳、尹民興、温璜、呉応箕らが応じ、旌徳・寧国諸県を奪還した。九月、御史黄澍が寝返って清に内応し、金声はこれを信じて隙を作った。城が破れると金声と門人江天一は捕らえられ、江寧で洪承疇の勧降を拒み、天一は懐宗の祭文を朗誦して誚り、丙戌三月十五日に共に処刑された。呉応箕も捕らえられ処刑、丘祖徳は山中の砦を攻め落とされ磔にされ、麻三衡ら多数の諸生も殉節した。
  • 温璜は郡城を守っていたが、紳士の黄澍が城を清に献じたため、璜は先に長女を殺し、妻とともに自尽を図って死んだ。璜自身も自刎したが即死せず、五日絶食して自ら傷口を抉って死んだ。同時期に挙兵した徐淮・呉漢超らも寧国襲撃に失敗し戦死、他にも龐昌胤、謝球、司石磐ら多くの義士が殉難した。