三藩紀事本末馬士英・阮大鋮の奸悪(馬、阮之奸)
弘光政権の実権を握った馬士英・阮大鋮の専横を描く。二人は逆案(魏忠賢一味)の復権と売官・粛清を進め、諫言する忠臣を退けて政局を混乱させた。左良玉の挙兵と清軍の南下を招き、南京陥落後も逃亡を重ねたが、唐王政権下で清軍に捕らえられ処刑された。順治元年(1644年)から順治三年(1646年)までの約3年間。
年表(3件)
- 順治元年甲申(1644年)馬士英が入閣し阮大鋮の登用を進め、反対する高弘図・姜曰広らを退けた
- 順治二年乙酉(1645年)阮大鋮が兵部尚書となり私党を要職に配し、左良玉が両者の罪を挙げて挙兵した
- 順治三年丙戌(1646年)唐王政権下で捕らえられた馬士英・阮大鋮が延平城下で処刑された
順治元年甲申(1644年)
- 五月、福王が江南で即位すると馬士英は東閣大学士に進み、鳳陽総督を兼任した。士英は密かに劉澤清・高傑に上疏させ史可法を淮揚の督師に出させ、可法が出た隙に自ら入閣し兵部を掌握した。
- 八月、中旨で張有譽を戸部尚書に昇進させたのは、阮大鋮登用の布石として先に清望のある有譽を立てたものであった。
- 吏部尚書張慎言は、慎言が銓衡を握る限り大鋮の起用は難しいと見た士英が劉孔昭・湯国祚・趙之龍らに攻撃させ罷免に追い込んだ。
- 馬士英は逆案(魏忠賢一味)の阮大鋮を「兵を知る」として推薦し、冠帯を賜り陛見させた。大鋮は罷免後南京に住み、士英や守備太監韓賛周と結んでいた。福王擁立後、韓賛周が大鋮の才を吹聴し、士英が辺才として推薦、陛見が決まった。
- 高弘図は九卿会議での審議を求めたが、士英は「会議すれば大鋮は用いられなくなる」と反対。姜曰広も廷推の旧制を主張した。士英は「魏忠賢の逆は李自成の乱以上」と反発する高弘図・曰広を非難した。劉宗周・郭維経・羅万象・詹兆恆・呂大器・熊汝霖・万元吉・陳良弼・王孫蕃・左光先・尹民興らが相次いで反対上疏したが、士英は大鋮を弁護し曰広・大器らを攻撃、ひと月余りで中旨により大鋮を兵部添注右侍郎に任じた。
- 湖広巡按御史黄澍が士英の奸貪不法を面糾し、張献忠の偽兵部尚書周文江から賄賂を受けた罪を指摘した。士英は跪いて処分を乞うも、黄澍が笏で背を打つほど詰め寄られた。士英は仮病を使い、宦官田成・張執中を通じて「士英を逐えば旧恩に背く」と王に働きかけ留任を勝ち取った。黄澍は上疏を重ねたが王は取り合わず、澍を楚へ帰らせた。
- 十月、逆案の楊維垣を通政使に。
- 鎮国中尉朱統𨰥が姜曰広を弾劾し史可法・呂大器らにも累が及んだ。給事中袁彭年・通政使劉士楨は手続きの不備と統𨰥の奸険を指摘したが聞かれなかった。もとは呂大器が士英の売官鬻爵等の罪を上奏し、曰広も士英に逆らっていたため、士英が統𨰥に指示させたものであった。大器は致仕、曰広は降格、統𨰥は行人に登用された。
- 辺境失事の罪ある太監孫呈琇が内批で原官に復した。章正宸の諫言も聞かれなかった。
- 祁彪佳が詔獄・廷杖・緝事の弊を論じるも、票擬が握りつぶされ、高弘図が抗議して致仕した。
- 内旨で張捷を吏部尚書に。科道の陸朗・黄耳鼎を内批で留用した。
- 士英は擁立の功で太子太師・錦衣衛指揮僉事の蔭を受け、九月には江北の功で少傅兼太子太師・建極殿大学士、十二月には南京への恩で少師、翌年二月には殿工の恩で太保に昇進した。
- 浙江巡撫黄鳴俊を罷免、巡按任天成を降格した(許都残党の再叛を理由)。前巡按左光先(光斗の弟で大鋮の政敵)も罪に問われるが、蘇松巡撫祁彪佳は光先の鎮圧の功を弁護した。士英・大鋮は彪佳を恨み、御史張孫振に貪汚の罪をでっちあげさせた。
- 越其傑(士英の妹婿、貪汚で遣戍されていた)を東萊巡撫に起用した。張献忠に降っていた劉僑(玉杯・古玩を献じ錦衣都督となっていた)も士英に賄賂を贈り原官に復帰した。
- 士英は童生の科挙免除と銀納による院試直行を許可し、納貢・助工の制も拡大、「掃盡江南金、填塞馬家口」の民謡が流行した。
- 布衣何光顕が士英誅殺を上疏するも、逆に市中で処刑され家財を没収された。
- 楚宗朱盛濃を池州府推官に。盛濃は御史黄澍を弾劾し士英に取り立てられた。澍は逮捕されかけるが江督袁継咸の弁護で免れ、以後左良玉の軍中に匿われ、両者の間に軋轢が生じた。
順治二年乙酉(1645年)
- 二月、阮大鋮が兵部尚書兼蟒服の栄を賜る。江防の実務には関与せず、蔡琛・唐世済・張孫振・袁弘勲ら私党を要職に配し、劉応賓に文選を任せ人事を混乱させ、林有本・王錫袞ら二十余人を給事・御史に私的に抜擢した。江督袁継咸推薦の総兵鄧林奇にも賄賂を要求。武官の任官が金銭で乱発され「職方賤如物、都督滿街走」の風刺が広まった。
- 中書舍人林翹が士英の重用を予見し取り入って一品武銜を得る。
- 罷免されていた杭州府推官黄端伯が、姜曰広の逆謀を密告したことで礼部主事に登用された。
- 楊維垣が左副都御史に。大鋮は維垣と結び東林・復社系の粛清を企て、乱心した僧「大悲」の供述に十八羅漢・五十三参と称する要人リストを捏造させ、大獄を起こそうとしたが上流の戦況悪化で中断した。
- 大鋮は病を理由に辞任した尚書賀世寿・僉都御史郭維経を暗殺しようと江中で刺客を放った。礼部主事周鑣(周鐘の従兄で東林系)・武惠道雷演祚(大鋮と因縁)を「従逆案」に絡めて処刑した。
- 四月一日、公文の「南京」の文字を廃止した(礼部の印章紛失を口実に全官署の印を改鋳)。
- 四月四日、左良玉が士英の罪状を並べ立てて挙兵、東下を開始した。士英の出自・専横、太子事件での讒言、要典再興、諡号改変による報復論の抹殺、売官の横行(越其傑・張孫振・袁洪勲らの復官)、兵権の独占と阮大鋮の登用、後宮人選への私心、優伶・美女の献上による君主への悪影響、周鑣・雷演祚らの粛清、私兵による皇城監視、そして太子を幽閉した罪など七か条を挙げ、討伐を求めた。
- 士英は恐れて出仕を控え、左軍への対抗に朱大典・大鋮・黄得功・劉孔昭らを充て、江北の劉良佐らを撤退させた。清軍が徐州・毫州・泗州に迫り史可法が急報するも、大理少卿姚思孝・御史喬可聘らは左良玉討伐より江北防衛を優先すべきと諫めた。王も同調しかけたが、士英は「良玉の死党の遊説」と一蹴し、異論者は斬ると威嚇、王も黙認した。まもなく左良玉は病死し、子の左夢庚は采石で敗れ、士英はその功で大鋮を太子太保に進めた。
- 五月、清軍が長江を渡り南京を包囲、王は蕪湖へ逃走した。士英は太妃を奉じ黔兵とともに浙江へ逃れる途中、広徳州知州趙景和に拒まれ、これを攻め殺害した。紹興では原九江僉事王思任が、王の無為無策と士英の専横・驕奢を痛烈に批判する上疏を送り、士英に自刎を勧める書も送った。杭州では熊汝霖に詰問されるが答えられず、清軍の追撃を受け五百人が斬られた。
- 魯王が紹興で監国すると、張国維が士英の十大罪を弾劾した。士英は入朝できず方国安のもとに身を寄せ、大鋮も金華から追われて同様に国安のもとへ逃れた。清軍との戦いに敗れ続け、士英・国安は各地で敗走を重ねた。
順治三年丙戌(1646年)
- 六月、清軍が銭塘江を渡ると、士英・国安は魯王を捕えて献上しようとするが王は脱出した。阮大鋮は謝三賓・宋之晉・蘇壮らとともに清に投降した。
- 唐王が福州で即位すると士英は兵を率いて入関を求めたが、罪が重いとして拒まれた。
- 八月、清軍が湖賊呉易を討伐した際に士英も捕えられ処刑されたと伝わる(野史では台州に逃れ清に投降したともいう)。まもなく清軍は順昌で唐王を捕え、龍杠の中から士英・大鋮、方国安父子、方逢年らの出関内応を求める上疏(すでに降伏した後のもの)を発見した。大鋮は登山中に自ら崖から身を投げて死んだが、なお戮屍された。士英ら四人は延平城下で斬られ、妻子は兵士に分け与えられた。